アマーティア・セン教授インタビュー

(99年10月17日、ケンブリッジ大学・トリニティー・カレッジ学長室)


永戸 私たちは教授の論文等に非常に心引かれてきました。94年の岩波の『世界』という雑誌で、一橋大学の都留重人先生の論文が、セン教授のことを紹介されて、その時以来、先生の書かれていることに興味を覚え始めました。私たちは労働者協同組合をやりだして、労働の人間化と地域の人間的再生――新しい福祉社会の創造という大きな目標を掲げたときに、先生の深いお話をお聞きしたかったので、今回、お願いしたわけです。

セン 労働者協同組合、協同組合の運動そのものは、世界の中で非常に強い動きになっていまして、大変重要な運動だと思っています。とくに日本における協同組合の運動は非常に強くて、そういう意味でも今回、永戸さん、菅野さん、中川先生にお会いできることを非常に楽しみにしていました。

永戸 最近日本でも、失業が増えてきていて、路上生活者等も増えてくる状況にあるわけですけれども、私たちが失業のない社会、経済をどうつくったらいいかということと、働いている人や市民が自らの可能性を広げることを含めて、社会の主体者になっていくような、そういう経済学が必要になっていると、強く思ってきました。ご存知のように日本経済においても市場経済の暴走、バブル経済の後遺症と失業問題が一つになって、かなり長期的な様相で混迷を深めています。

セン もちろん、日本における失業の増大ということを考慮されていることは、時宜に適ったことです。日本におけるこれまでの失業率の相対的な低さ、そしてまた現在のヨーロッパと比較してもまだ低いという状態を鑑みても、近年の相対的な増加は大変な問題であることは確かです。その解決策として、労働者協同組合を提示されていることは、画期的であり、適切であると考えています。なぜならそれは、二つの重要な要素である、労働と協同を組み合わせた概念であって、労働者の連帯、労働=雇用を得ていく作業と、協同――競争ではなく協同という概念を導入しているということは、非常に高く評価できます。

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永戸 日本でも世界と同様、完全雇用の達成という目標があったときの労働者や労働組合ないしは市民の希望は、自らがただ要求することによって適えるのは政府であり、資本家であり経営者である。そこに向かって自分たちの要求を実現するように運動するということがすべてだったわけです。しかし、最近のいちばん象徴的な事件でいえば、阪神大震災で市民の生活がずたずたにされ、雇用の場も失われ、その際に、この機とばかり、流通産業等では首切りが同時的にやられて、生活が破綻する人たちがたくさん増えたわけですけれども、政府も公的資金で市民の生活を建て直すということには非常に消極的だった。企業も雇用責任をとるということでは、ほとんど役割を果たさなかった。こうした場合、労働者・市民が自ら仕事の場をつくりあげるというような、事業経営能力をどうしても持たなければならないということが、日本でもますますはっきりしてきたのではないか、と思っております。

セン おっしゃるようなこれまでの労働者・市民の**ですとか、**の力ですとか、そこにおける労働者協同組合の理由付けは、非常によく分かるのですが、ここで強調したいのは、いくつかの社会の諸組織――政府、企業、資本家といった労働者と並ぶ社会の諸組織の役割、ないしは義務が、それぞれ組み合わさった形で見ていかなければならないのではないか、ということです。政府は、国家ないしは地域の経済の総体を見ながら、同時にミクロの部分における様々な諸政策――雇用政策等の活動を行っていかなければならないわけですし、企業においても雇用の側面を重視したときに、処すべき義務はあるだろう。最も伝統的な日本の価値――雇用に対する価値、社会、経済に対する価値というものから見れば、それぞれの社会の諸組織の関係性というものは大切にされてきたわけで、そうした歴史的なコンセプトがとても大切なのですが、その中で政府だけが雇用の問題に対処するのでなくて、労働者の側からも自立的なアプローチをやっていかなければならない。労働組合等がそういった**をしていかなければならない。日本労働者協同組合の戦略、やり方というものは、そういう意味では、とてもプロセスに貢献するものでしょう。ただ繰り返しになりますが、ここで重要なことは、それぞれの異なった組織は、それぞれの異なった責任を持つわけで、その責任を十分に認識した上で、明確な総合関係をつくらなければならない――労働組合、労働者協同組合、政府、企業といった組織が、それぞれ全体として、雇用なら雇用の問題を解決していくという、有機的な関係になっていかなければならない、というふうに思います。

永戸 日本では労働者協同組合は制度として成立していないので、法律をつくって制度化するということを各政党にお願いして、この1〜2年の間に何とかしようというふうに考えています。そのこととも関わって、とりわけ日本では労働と協同というテーマで協同ということを考えた場合、労働者協同組合の今度の法案では、労働者協同組合は「協同労働のための協同組合である」という定義づけをしているわけですが、これは雇用労働だけで労働=仕事の問題を解決できないとなった場合、「協同労働」というような概念が、社会の中に定着する可能性を、先生から見られると、どうお考えでしょうか。

セン この点に関して3点述べたいと思います。

一つは、確かに労働者協同組合という形で経済を再構成するという考え方は、とても魅力的ではあるのですが、これはあくまでも付加的なものである、というふうに考えるべきです。これが現在の賃労働に完全にとって代わるものと考えるのは、危険であり、そうしたことを考えるのは、非常に楽天的であり、非生産的でしょう。この協同労働という考え方は、現在の経済システムの中における補完的なものとして認識することが、最も大切であり、賃労働が行わないことを行っていくための枠組みだと考えるのが、最も適切であろうと考えます。

第2点ですが、現在、労働者協同組合というものが、法的に確立した概念ではないとしても、歴史的な日本の経済発展のあり方を見れば、日本における労働者の協同関係というものは今までにも存在したでしょう。これまで20年来、日本における経済システムということで様々な人びと――たとえばロナルド・ドーアですとか森嶋通夫、青木さん、池上さんといった方々が、様々な側面――とくに協調的な側面に光を当てて分析したものがあります。たしかにこれは、ある意味では特殊な視点だったのかも知れませんが、しかしその中にも、若干の真実はあるでしょう。そういうことに鑑みて、日本の就労システムのこれまでを考えれば、それは、当然、英米型の経済システムとは違う、何らかの社会の中における労働者の協同ネットワークというものがあった関係だというふうに考えています。したがって、確かに法的な概念として労働者協同組合という考え方は新しいものではあると思いますが、これは歴史と伝統から離れたものではありません。

第3点は、これと類似したことなのですが、日本、とくに明治の後期から行ってきた教育の側面――教育基盤の形成というものが、ここでは大きなポイントを占めるでしょう。とくに学校教育を通じて様々な教育基盤の形成と人材開発を行ってきたことは着目すべき点であり、これは労働者協同組合をつくりあげていく上で不可欠の存在です。労働者協同組合は、高い教育水準を持った知的な労働者が協同するということが前提になるわけで、そういう意味では、初期の資本主義における無知な労働者が経営者の言いなりになるといった状態の中では形成されないでしょう。そういう意味でまた、日本の伝統の中にこういう教育に対する基盤があるということが、重要なポイントであって、そういう意味でも労働者協同組合という考え方は、これまでの日本のあり方とそれほどかけ離れたものではないと認識しています。

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永戸 日本の社会の変容というか、これからどう変わっていくかということと、この協同労働ということをテーマにしたいのですけれども。一方ではこれまでの重厚長大型の産業でのリストラ――産業的な縮小が非常に具体的に進んでいることと、もう一方で、これは政府も認めていることですけれども、雇用創出をできる場面が環境ですとか、教育とか、情報関係とか福祉――とりわけ福祉の分野で仕事が増える。これは高齢者社会が日本で急速に訪れているということもあって、こうしたことが共通の認識の基盤になっているのですけれども、私たちの労働者協同組合が、基盤的にいえば、こういった面から一定の成果を収められるかなと思っています。

それと公的介護保険制度が始まります。この分野ではNPOとか協同組合組織が非常に頑張れるところで、とくにこの法律が市民の制度への参加ということと、地域分権的な介護のシステムをつくることを目標にしています。こういうところに生まれる労働の関係は、私たちは協同労働ではないのか――そのことによって、コミュニティの再生とということを日本はとりわけ重視してやらないと、だめではないか。

もう少し分け入って考えてみると、これまで日本では老人の介護は、女性たちが85%担っていた。しかも長男の嫁が主に担ってきたことによって、女性たちの社会進出を大きく阻害してきた。これを家族介護から解放して、社会的介護にしようという今度の介護保険制度が、日本全体に非常に大きなものをもたらしていくだろう、というふうに私たちは推定していまして、この面でも労働者協同組合のような、先生の言われた教育の基盤の高さを日本人がもう一回思い起こすことが大事ではないか、と強く思いました。

セン 確かに歴史の問題を語るに当たって、歴史のある部分に関しては、そこから教訓を学び、ある部分に関してはそこを乗り越えていくということが必要なことは当然です。そういう意味でおっしゃっていることはよく分かります。

ただ、19世紀の終わりから20世紀にかけての日本の経済的な成長を見ていると、一つ重要なことは、日本の社会は市場経済という制度を英米のようには信じてこなかったにあるでしょう。日本は市場経済というものだけが**の中心にあるようには考えずに、同時に国家ですとか、社会ですとか、法的な制度ですとか、教育ですとか、そういった公的なものも含めて、市場という制度と並立をさせて考えるやり方をしてきた。これについては、マクロ的な意味で非常に大きな重要なポイントでありましょう。

近年の日本の経済的な問題、企業界における様々な問題を考えるに当たっては、そうした考え方――つまり市場を唯一の制度と見ないという考え方が悪く出た側面もあります。その意味で確かに、市場の中で金融制度を確立していくために新たな制度をつくるという考え方が出てくるのは当然ですが、同時に過去から切り離さないで、その上に立っていくべきものもあるでしょう。そうした、今まで日本が市場を信じてこなかったというところに重点を置いて考えて歴史に学ぶ**。

 先ほどの話を今の永戸さんがおっしゃったコンテキストに合わせてみると、こういうことが言えると思います。つまり、かつての古いシステムである老人を介護するという考え方、やり方は、日本における社会のあり方の評価を見定めていく、一つの例を示すと考えられます。ここで4つのポイントについて考えてみたい。

1つは嫁が介護をするということは、ジェンダーの不平等が表に出てきている問題であり、嫁が家庭内で無償労働でこき使われている状況があります。これは明らかにジェンダーの不平等に関わっているものであり、これは近代社会が持っている負の遺産であって、そこは乗り越えなければならないものです。

2番目に、年功序列、年長者優先の仕組みがある。老齢者の方が強い発言権を持っていて、そうした社会の構造の中で若い人たちは自らの主体的行為を行うことができない。そういう意味で年長者優先の仕組みに基づいたこのシステムは変えていかなければならない、と言えます。

ただし、次に挙げる3番と4番の要素に関しては、否定的な側面ではなく肯定的な側面で、この嫁が老人を介護するという考え方を評価できるでしょう。

すなわち、3番目に、この家族を通じて嫁が老人を助けるというのは、社会に確立された、助けを必要としている人を助けていくという仕組みであることを認めることです。つまり、介護を必要とする老人が存在していて、そこに嫁が介護を提供するという部分では、ヒューマニティーというのでしょうか、人間性というものがそこで発揮されているわけです。確かにそれが先ほど挙げた二つの側面はありながらも、ただそこに人間性があるということは、疑いのないことです。西側の社会のシステムから考えると、とくにその点が強調されるべきでしょう。おおむね欧米の社会においては、老人が自ら貯えを持ち、自らが独力で生活をしていくということが普通であって、老人が一人で生活していかなければならない環境があるということは、日本と比べれば、否定的なものでしょう。そういう考え方からすれば、日本の人間性の発揮による嫁の介護というのは、肯定的なものとしてとらえることができます。

4番目に、嫁が老人の介護をするという関係は、市場を通さない人間と人間の関係であるということに着目すべきです。つまり、家族という既存の社会制度を通じてではありますが、それを通じて、賃労働関係ではない人間関係がそこには成立している。当然そこには、愛情とか家族の情愛というものが組み込まれているわけで、それはお金では測れないものとして認識されているわけです。このマーケットを通じていないという考え方は、労働者協同組合の考え方に通じるものでしょう。労働者協同組合も広い意味では、社会全体が家族であるというような捕らえ方をしているわけです。そういう意味では、嫁が老人の介護をするという考え方は、全面的に否定されるべきものではない部分も含まれているはずです。そうした社会の様々な制度を分析する際に、その肯定的な側面と否定的な側面を両方きちんと冷静に分けた上で議論をすることが、かなり肝要であると、強く考えます。

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永戸 日本では完全雇用という言葉もほとんど消え去った言葉になっていて、労働組合でも政府でも言わなくなっていますが、そうかといって失業を放置するわけにはいかない。しかもその経済のあり方が変わってきている折りに、先生の言われた、日本は市場経済を絶対のものとして来なかった、必要な公共政策が存在し、いろいろなものが組み合わされて今まで良好な状態をつくってきた、というご指摘だったように思います。今のような状態になったとき、それから先ほどの高齢者の問題ですね。家族が介護を必要とする人を手助けすることの良い面をほんとうに伸ばそうとすると、公的介護保険制度で介護を社会化するとともに、完全雇用の問題でもそうですけれども、公共政策が持たなければならない最大のポイントは何かということをご質問したいのですが。

セン 雇用の問題に関していうと、ヨーロッパの経験からいえば、大切なのは創造的な出発点を持つことです。ヨーロッパの失業問題は大変な問題であったのですが、そこで大切だったのは、労働者と資本家、ないしは労働者と経営者の関係を、がっちりしたものではなく、フレキシブルにとらえていという考え方からスタートしたことが、非常に大きかったでしょう。雇用者は労働組合等に対してもっとフレキシブルになるようにという要請はありますし、経営者の方も、もっとフレキシブルに対応しなければならない。そういう点で協同組合というのは、その両者壁を壊して対話を広げるという可能性を持っているという意味で、重要な役割を担っているでしょう。

第2に、大切なのは、経営者が今まで持っていた賃金レートによって、賃金の決め方、労働者と経営者の対立関係を維持していると、雇用の問題は永遠に解決されないでしょう。その意味では両者の関係を変えていく役割として労働者協同組合がありうるでしょう。

3番目に高齢者の問題なのですが、ここで重要なポイントとして、高齢者をただの福祉の消費者として考えるのではなく、もっと広い役割を与えることを考える方が良いでしょう。その点について2点あります。

第1点は、多くの人が寿命が伸びていくと、高齢者社会がやってくるわけですが、ただ老齢になったからといって、働けないというわけではない。働く能力があり、働く意志がある人たちをどういう形で**っていくのかということに関して、労働者協同組合の役割があるでしょう。とくに老人が定年後も働くということで生きがいを持ち、そして同時に収入も得るということを考えると、高齢者はただの福祉の消費者ではなく、生産者でもある――そう考えるべきです。

第2点は、高齢者を社会のもっと大きなコンテキストの中で、諸保険ですとか、**ですとか、年金の問題ですとかを捉えていって、高齢者を社会の対話の場に導き出すことも、労働者協同組合の役割でしょう。社会というものは、様々なアイデンティティを持った、様々なグループによって構成される――それらのグループが協同ということによって初めて成り立つものであって、高齢者は高齢者であり、かつ労働者でもあり、かつ市民でもある。そういう関係の中で、男性と女性だとか、雇用されている人と失業者ですとか、そういった社会の様々なグループを対話の場に導き出すのも労働者協同組合の仕事であろうと思います。

また大きな主題(?)の繰り返しになりますが、結局言いたいことは、ただ労働者の間の協同というだけではなくて、広い意味での経済全体の協同というレベルでものを考えることによって、さらに労働者協同組合の役割というものの創造性が広がっていくのではないか、というふうに考えます。

永戸 ありがとうございました。

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協同総合研究所(http://JICR.ORG)