『協同の發見』2000.8 No.99 総目次

市場経済のなかで続く農協の模索
――大分県下郷農協を訪ねて(7/15−16)――

阿部 誠(大分大学経済学部
耶馬溪にある農協

 下郷農協は、大分県北部の耶馬溪町にある組合員数499名、324農家の小さな農協である。大分県には山がちの地形が多いが、なかでも耶馬溪は山深いところにある。中津市と日田市を結ぶ国道212号線のほぼ中間に位置し、どちらの都市からも車で1時間ほどかかる。このあたりは多くの奇岩がかたちづくる景勝の地として有名であり、昔、頼山陽がその美しさに筆をなげたと伝えられる擲筆峰という名勝も近くにある。とくに秋の紅葉の季節は美しく、各地から多くの観光客が訪れる。昔は、木材を運搬するための軽便鉄道が中津市まで走っていたというが、それが廃止されてからは交通手段は自動車にたよらざるを得なくなっている。いまは道路も整備されたので、人の移動や農産物の運搬もずいぶん簡単になったとはいえ、消費地の都会から遠く離れている不利さは補いようがない。もっとも、その分のどかな田園風景が広がっているのであるが、中山間地域のため農業の条件にも恵まれず、早くから過疎化が進んでいる。高齢化も著しい。

有機農産物の産直に取り組む下郷農協

 下郷農協はこうした地域にあって、有機農産物の産直を通じて農村の生産者と都市の消費者を結びつける取り組みを行ってきたことで全国的に知られている。この農協は、地主や地元有力者による地域支配に反対して1948年に「農民が自分たちで運営する農業のための農協」として設立された。当初は米と木炭などを主に取り扱いながら、組合員がつくった農産物を買い上げたり、加工事業に取り組んだりしていた。1955年頃に開拓部落の農民が農協に加入し、酪農をはじめたため、農協として牛乳の生産・販売を行うようになった。とくに1960年に牛乳の処理施設をつくったのを契機に、牛乳の販路を拡大するために北九州市で牛乳の直販を行うようになった。この牛乳の直販をきっかけとして、農協は都市の消費者が求める農産物を直接に届ける「産直」に取り組みはじめ、扱う農産物や地域もしだいに拡大していった。
 その後1975年頃には、一般の市場に出回るものとは違う、下郷農協の「産直」の意義を明確にするため「有機野菜生産組合」を組織して、無・低農薬有機農産物の栽培を積極的に進めるようになった。そして、地域ごとに生産品目と量、価格をきめる「責任作物制」を導入し、消費者が求めている安全でおいしい農産物づくりを広げるとともに、生産と価格の安定をはかるシステムを確立していった。また、地域資源を活用し、その付加価値を高めるとともに、雇用の場を拡大するため、食肉工場や牛乳工場、惣菜工場などを次々と建設し、畜産品の加工や味噌、豆腐、小麦粉、うどん・そばなど地元の原材料を使った無添加の加工品をつくる事業にも農協として積極的に取り組んできた。 現在の農協の職員数は正職員65名、臨時職員32名であるが、このうち約6割は加工工場で働いている。
 1989年には診療所も開設し、地域医療にも活動の場を広げていった。診療所はしばらく赤字に悩まされたが、デイケアーセンターを併設し、定員20人でデイサービスをはじめて以来経営も改善され、今日では農協の重要な部門になっている。
 一方、農協は全国的に大型合併が進んでいるが、下郷農協は、農家に近いところから農家を支える役割を担っていかなくてはならないという考えから合併を拒否してきた。最近でも、周辺地域の6農協の合併が進んでいるが、下郷農協は単独農協を維持している。
 下郷農協は、大分市や北九州市などにアンテナショップ的な意味で「産直の店」を設けているものの、これまで生協や消費者団体との間での産直を基本において事業を進めてきた。そこには、「市場の論理」をこえ、消費者と生産者の交流と相互理解にもとづいて農産物を生産し、供給しようという考え方が反映しているということができる。都市の消費者と農村の生産者との協同による食糧生産の試みといってもよいだろう。したがって、消費者と農民の交流の場をつくるとともに、消費者団体と話し合うなかで契約を行い、価格をきめている。こうしたなかで、市場の影響を受けるとはいえ、価格面でも販売量の面でも、生産費が大体確保できる水準を維持してきた。ここに下郷農協の取り組みの特徴があったというべきであろう。しかし、こうした下郷農協の活動も大きな壁にぶつかっているようである。筆者はこれまで何度か下郷農協を訪問しているが、今回の協同総研の調査に参加して、こうした思いを強くした。


下郷の酪農、養鶏、そして農産加工

 その話に移る前に、今回訪ねたところを誌上で振り返っておこう。下郷農協の製品の中心のひとつは「耶馬溪牛乳」(以前は「労農牛乳」といっていた)であるが、ここの酪農の中心は、戦後、信州などから入植して山林を切り開き、開拓を進めてきた鎌城地区である。鎌城の酪農家が出荷する牛乳は下郷農協の産直の出発点でもある。我々一行は、まずここを訪ねた。ここにも何度かお邪魔したが、細く急な山道をどこまでも上ってゆくと急に視界が開けて高台に出る。ここが鎌城地区である。昔は、この山道を毎朝暗いうちに絞った牛乳を担いで上り下りして、中津の牛乳工場へ出荷したという話を聞いたことがある。今は車で行けば10 分あまりで着いてしまうが、開拓当時の苦労が偲ばれる話である。当時の様子は渡辺成美さんや矢吹紀人さんが詳しく書いている(注1)。いまは次世代が後を継いでいるところが多く、牛舎やサイロ、貯乳タンクなどの設備も整い、搾乳も自動化されている。酪農は朝早くから重労働の連続である。朝晩2回搾乳した牛乳は、自動的にタンクに貯えられたのち、毎日下郷農協のトラックで牛乳工場に運ばれ、ここで処理した後、福岡県の生協などへ出荷されている。下郷農協では、以前には牛乳だけで年間13―4億円の売り上げがあった。しかし、最近、生協との取り引きが中止になるという出来事があった。一部の取り引きは再開されたものの、取り引き量は従来の半分以下になっており、酪農家の一部には別の乳業メーカーへ出荷するようお願いせざるをえなかったという。農協にとって大きな試練である。我々が訪ねた酪農家は、30頭の搾乳乳牛を飼うとともに、ほぼ同数の子牛を育てており、この日の朝に生まれたばかりの子牛が我々を迎えてくれた。
 ここで夕方の搾乳を見た後、大企業サラリーマンをやめて養鶏をはじめたという養鶏農家を訪問した。ここの鶏はケージに入れられているのではなく、放し飼いである。そのため卵の味が濃いという。訪ねたときは夕方になっていたため、鶏は小屋に入っていたが、草を投げ入れると羽が茶色をした鶏が次々と出てきて草をついばみ、柵のなかを元気に走り回る。有精卵をうませるために一定比率でオスも混ぜているため、目の前でオスがメスをつかまえて交尾を繰り返す。卵は餌によって黄味の色やかたちが変化するという。消費者は色が濃く、もりあがった黄味を求めるので、ここでも餌を工夫しているというが、それがコスト高につながるのが悩みでもある。ここの鶏はヒナから1年半ほどたつと有精卵の産卵率が悪くなるので、つぶして鶏肉として出荷されている。
 鎌城にあるキノコ工場も訪ねた。ここでオガクズをつくり、そこにエノキダケの菌を植え、農家に栽培をまかせる。しかし、いろいろなキノコが市場に出回るなか、エノキダケの価格は低迷しており、生産コストが出ないことも少なくないという。せっかく農家が栽培しても、コスト割れをするというのでは、大変である。
 翌朝は、1994年と1993年にそれぞれ完成した牛乳工場と惣菜工場を見学した。牛乳工場は大きな処理能力をもつが、生協むけの取り引きが減少したこともあって、実際の生産量は小さく、稼働率は低い。また、惣菜工場では味噌やとうふ、惣菜類、プリン、アイスクリームなどさまざまなものを生産しているが、この日は日曜のため工場はお休み。静かな工場のなかを歩いた。

転換期をむかえた下郷農協の産直

 この後、農協で末国参事から話をうかがった。下郷農協は、日常的に消費される食糧の多品種少量生産を推進しており、組合員農家は酪農、養鶏、肥育牛、養豚、野菜、果樹、稲作、エノキ、たばこなどの複合経営をしているところが多い。平均の経営面積は56ヘクタールで、畜産農家や酪農農家では専業農家も多い。しかし、ここでも跡継ぎ問題は深刻である。鎌城地区の酪農家にはすべて後継ぎがいるというが、それは例外である。農家の若者の多くは、農業に関心をもたず都会に出ていってしまう。いまの下郷農協をささえているのは、むしろよそから移ってきた新規就農者であるという。農協職員も地元農家の家族ばかりではなく、周辺地域の非農家からも採用している。耶馬溪のような中山間地域では、家族農業はすでに解体している。いまの日本の農業をかろうじてささえているのは、「農」にこだわる人々の努力なのであろう。
 筆者は、以前、中山間地域における産業の振興を考えるうえで市場問題が重要であるが、競争の激しい一般市場で条件不利地域が安定した販路を確保することは困難であり、都市の消費者と農村の生産者が協力しながら安心できる農産物づくりに取り組み、その安定供給をはかる仕組みをつくることが必要であると論じて、農家と消費者との提携・協力の事例として下郷農協の取り組みを紹介したことがある(注2)。たしかに、下郷農協は、これまで産直によって安定した販路を確保し、順調に事業を伸ばしてきた。ここの産直は、東は東京都、神奈川県から、西は鹿児島県まで広がっており、現在、25団体、950班の消費者グループに農産物や加工品を届けている。しかし、下郷農協でも産直による供給高は1989年がピークであり、90年代に入ると日本経済の構造転換と歩調をあわせるかのようにして減少し、経営も悪化した。この要因としては、農産物の輸入自由化によって農産物の「価格破壊」が生じたこと、また、産直の消費者層が高齢化したため、ニーズが変化し、消費量も減少していることなどあるという。都市住民のライフ・スタイルが変化しており、消費者グループとの産直自体が難しくなっていることもある。しかも、以前は13−4億円の売り上げがあった、主力商品の牛乳が半減したことも全体の売り上げの低下に影響している。同時に、下郷農協は加工工場を整備し、農産物加工に積極的に取り組んできたが、最近はHACCP(ハサップ)などによって食品製造の基準が高くなっており、消費者も高水準の商品を求めるようになっている。このため加工施設や工程管理などの面で従来以上に高い水準が求められており、規模の小さい農協には大きな負担になっている。


市場経済のなかでの協同組合経営

 最近の下郷農協のかかえるこうした困難さの多くは、社会経済の構造変化にねざした問題ということができる。現代の市場経済のなかにあって、協同組合も市場の影響を強く受けており、「市場」と折り合いをつけながらその存在意義を示さざるを得ないわけであるが、とくに90年代における市場競争の領域の広がりと激化、そしてコンシューマリズムの高まりのなかで、協同組合セクターは従来以上に直接的な市場の影響を受けるようになっており、そこから協同組合の存続にかかわるような多くの困難が生じている。こうしたなかで、下郷農協は今年を「産直建て直し元年」と位置づけ、産直の再建に取り組みはじめている。この一環として、4月から大分市で牛乳の宅配事業をスタートさせた。同時に、スーパーなど一般の量販店にも有機農産物に理解を示すところには積極的に出店し、市場での「下郷ブランド」の販売を拡大する方向も追求している。すでにいくつか出店計画もある。将来的には、産直、生協、量販店、宅配事業を販路の四本柱とし、それぞれおよそ四分の一づつにしてゆきたいという。今日の経済環境とライフスタイルの下で、農協の事業を維持・拡大してゆくには、消費者団体との産直事業や生協との取り引きを基本においた路線を維持しつつも、一般市場での取り引きを従来以上に拡大する方向に進まざるを得ないということであろうか。
 今日、市場経済のなかで協同組合経営は従来以上に困難さが増している。協同組合も、「市場」を意識し、何らかのかたちでこれと「折り合い」をつけながら、消費者の求める安心できる食べ物といった、協同組合としての独自の価値を付加することが求められている。これによって協同組合の存在意義が示せなければ、協同組合は市場経済のなかで消滅することになろう。下郷農協の話を聞きながら、今日そのぎりぎりのところにきているとの感をつよく受けた。協同組合セクターと市場の関係について、実践的にも理論的にも突き詰めて考えるべき時期にきていることをあらためて感じながら下郷農協をあとにした。

注1) 渡辺成美『協同の原点を求めて』農業・農協問題研究所、1985年
奥登・矢吹紀人『新下郷農協物語』シーアンドシー出版、1996年
注2)中嶋信・橋本了一編『転換期の地域づくり』ナカニシヤ出版、1999年、第12章

8月号目次協同総合研究所(http://JICR.ORG)