『協同の發見』2000.1No.93
『協同の發見』目次
International Labour Review
 
不平等、失業および現代ヨーロッパ
 Inequality,unemploymentandcontemporaryEurope
 
 
    International Labour Review, volume 136 Number 2
    ILO=国際労働機関、1997年
アマルティア・クマール・セン(イギリス/ケンブリッジ・トリニティ・カレッジ・マスター)
       翻訳:菅野 正純(協同総合研究所)
原書編集者注: アマルティア・セン氏は、経済学および哲学の教授であり、レイモント大学、ハーバード大学教授である。本論文は、1997年5月5〜7日、Calouste Gulbenkian財団の「社会的ヨーロッパSocial Europe」リスボン会議に提出された文書を若干短くし編集したものである。本論文は、同財団の快諾によってここに発表されるものである。
 哲学者で教育学者であったジョン・デューイは、深刻な決定課題は一種の「自己自身内部の闘い」を含んでいる、と論じた。「この闘いは」とデューイは説明した――「彼にとって明らかな善と、彼を引きつけるもののそれが悪いことだと彼が知っている何ものかの間の闘いではない」。そうではなく、「それぞれの価値がそれ自体は疑いもなく善であるが、相互に分岐してゆくものの間の闘いなのである」(Dewey and Tufts,1932,p.175)。私的なジレンマが個人内部の闘いであるとすれば、社会的ジレンマは、それぞれが公的関与を命じ、われわれの尊敬と忠誠を求めて競争する根拠を備えた、異なる価値の間の闘いである。この緊張には、それぞれの原理が社会に求める、異なった要求が含まれている。それらの原理は、(正当な理由によって)われわれの注意を喚起しながら、しかも相互に対立して、われわれがそのすべてを満たすことができないようなものである。
 経済的・社会的不平等には、多くのそうしたジレンマが含まれている。大きな注目を集めてきた対立は、集計的な配慮と配分的な配慮(aggregative and distributive considerations)の間の競合に関わるものである。重大な経済的ないし社会的な不平等は魅力的ではないし、深刻な不平等がまぎれもなく野蛮であることは多くの人が気づくことである。それにもかかわらず、不平等を除去しようとする試みは、多くの場合、あるいはすべてと言ってよいほど、失敗に終わっている。この種の対立は、個々の状況に応じて、あるいは穏やかな形であるいは深刻な形で起こりうるのである。
 こうした特殊な問題は、専門家の相当な注意を集めてきたし、それが重要な対立である以上、そのことはまったく正当であった。集計的な配慮と配分的な配慮に注意を払うことによって得られた社会的達成を評価するために、多くの妥協的な方式が提案されてきた。その良い例が、Tony Atkinsonの「平等に配分された等価の所得」についての概念である。これは、われわれの倫理的判断を反映する指標を選択することで得られる、集計的関与(concerns)と配分的関与の間の「トレード・オフ」によって、所得配分における不平等の程度という点に照らして集計された所得から差し引くことで、集計された所得を調整するものである(Atkinson、1970、1983;Sen、1973;Sen、1997におけるFoster and Senの付録)。だがそうした重要性にもかかわらず、その対立は本稿の焦点ではない。その主な理由は、そうした主要問題が今ではよく理解され、評価の著作や政治討議において正当に把握されてきたためである。
 別のタイプの対立――別種の「内部闘争」が、ここでは検討される。これは、不平等を評価しうる多様な変数の間の対立である。所得の不平等は、福祉(良いくらしwell−being)、自由、および(健康や寿命を含む)生活の質の他の側面といった、他のいくつかの「場面spaces(空間)」における不平等とは、根本的に違ったものでありうる。われわれはこれらの変数のそれぞれにおける不平等に関心を持つかもしれないが、それらのランキングは相互に対立しうるし、それらが持つ政治的意義もかなり異なったものかもしれない。こうした理由から、次のように論ずることができる。すなわち、不平等の研究における中心問題は、抽象的な平等の価値にはそれほど多くなく、「何の平等か?」にあるのだ、と(Sen、1980,1992で論じたように)。
 高い所得はあるが政治参加の機会がまったくない人は、通常の意味では貧しくないが、重要な自由を欠いていることに変わりはない。他の人々よりも豊かだが、高額の治療費を要する病気に苦しんでいる人は、たとえ彼女が通常の所得配分統計において貧困者に分類されなかったとしても、重要な意味で困窮していることは明らかである。雇用の機会を否定されたが「失業手当」として国家から援助を与えられている人は、職務を遂行するという価値ある――そして価値を認められてきた――機会と比べれば、所得の場面ではほとんど困窮していないように見えるかもしれない。事実、Schokkaert and Van Ootegem(1990)によるベルギーの失業者に関する研究が示したように、失業者は自らの生活における自由の欠如のために困窮を感じることがあるし、このことは単なる所得の低さをはるかに越えているのである。多様な種類の困窮が所得の貧困の限度をはるかに越えると規定される場合は、その他にも存在する。
 ここで注目すべき重要問題は、所得の貧困を越えて行く必要だけではなく、様々な場面で判断される異なる不平等の間の対立でもある。例えば、所得の不平等は政治的自由の不平等とは根本的に違っているかもしれないし、健康の不平等は、その両者とも異なることがある。そのそれぞれに重要性を与えても理由は成り立つのである。この種の対立は、集計的配慮と分配的配慮の間の対立ではない。むしろそれは、集計的成績と不平等の両方が判断される、様々な「場面」の間の対立なのである。「評価場面evaluative space」の選択は、規範的判断(normative judgements)にとってきわめて重要であり、政策決定にとって大きな意義を持ち得るのである(Sen、1992で論じたように)。

◆場面の意義(Relevance of space)

 この種の「内部闘争」に注意を集中することには、三つの異なる理由がある。第一に、異なる「場面」における不平等の間の対立が、政治文献においてと同様、学者の間でもしばしば無視されてきたことである(注1)。事実、あなたが経済的不平等について研究していると言明したとすると、あなたが所得配分の研究をしているとみなされることは、きわめて一般的である。人々の福祉(良いくらし)ないし自由ないし生活の質に影響を及ぼす、所得以外の要因について、経済学がたくさん語ることがあるという事実は、経済的不平等の理解がこのように狭められている場合には、ほとんど無視されるのである。
 第二に、欧州の政策決定という文脈では、この対比がきわめて重要になることがある。ある場合には、欧州における失業の展開が、所得配分の展望をかなり制約する。失業が他の多くの道筋においても困窮を引き起こすからである。失業が引き起こす所得の喪失は、当該個人に関するかぎり、失業手当やその他の形態の所得援助によって、かなりの程度補償されることができた(社会にとっては、それらの補償は相当の財政費用およびある場合には誘導効果によって達成されるのであるが)。所得分配という意味では、政府の移転支出を通じて受け取った所得は、雇用を通じて得た所得とまったく同額である。だが失業は、個人にとってさえ、その他の多くの深刻な影響をもたらしてきたのであって、経済的不平等と所得の不平等を同一視することは、経済的不平等の理解と研究を貧しいものにする。
 現代欧州経済における大衆的規模の失業を踏まえると、所得の不平等だけに関心を集中することは、とくに認識を誤らせることになりうる。事実、大衆的水準の欧州の失業は、今日、所得分配それ自身と少なくとも同程度の重要問題である、ということができる。この問題は、後に触れることとしよう。

健康問題と不平等 (Health problems and inequality)

 ヘルスケアおよび医療保険という重要問題も、所得の不平等をはるかに越えた問題にわれわれを導く。二つが合流したときでさえ、健康の不平等は、所得の不平等とはまったく異なる種類の問題を提示する。例えば、改革後のロシアは、(平均所得の低下と並ぶ)所得の不平等の鋭い増大と、(平均寿命の低下と並ぶ)健康の不平等の鋭い増大の双方を見せている。両者の進展はまったく無関係ではないが、同一の課題の二つの側面というほどには、密接な関連がないことも明らかである。
 ロシアにおける健康の危機には、精神的落ち込みやアルコール依存と並んで、病院制度のや医療サービスの崩壊が含まれているのである。経済が回復し、平均所得が上昇して、さらに所得の不平等が緩和されたとしても、医療制度の危機を踏まえると、罹病率や死亡率を上昇させた多くの要因が、ロシアではなお残存することだろう。ロシアの男性の平均余命(現在57歳まで低下)が、例えばインドの男性(61歳)よりも低いという事実は、主として所得の貧困によるものではない。ロシア人はインド人よりも依然としてかなり豊かだからである。答えには組織的な問題が含まれており、そのことはわれわれが所得への配慮を超えていくことを求めている(Dreze and Sen、1989参照)。
 所得分配統計は重要ではあるが、欧州における不平等は、その枠組みによって明瞭な研究を行うことは不可能である。健康や教育、その他の分野に対する公共支出のパターンが(年金や給付金といった現金の移転と並んで)、現在、深刻に再検討されていることを踏まえると、所得以外の場面での分配的・集計的な措置をしっかりと視野にいれておかなければならない。不平等に関する欧州の公共討議においては、所得分配統計に大半の関心を集中する傾向があったが、所得以外の措置をより明示的に描く必要がある。

◆政治的不平等  (Political disparities)

 政治討議の課題は、他の種類の不平等、すなわち、政治参加の不平等に注意を向けなければならない。これは言うまでもなく、民主主義の中で生活する個人の中心的権利(entitlements権利授与)の一つであり、「社会的選択」の展望から、われわれはこの分野で得られる平等ないし不平等についてのきわめて根本的な疑問を発することとなる。参加の障壁は、それ自身が不公正であるだけでなく、他の種類の不平等に広範な影響を及ぼす可能性がある。その他の不平等が公共政策や政治過程から影響を受けるのである(Sen、1995参照)。
 参加の程度は社会・文化グループの間で様々であるが、その頂点においても、欧州の大半に特殊な異常事態が存在している。合法的に定住した移民が、市民権を得ることが困難で遅いため、政治的投票権を持っていないことである。このため彼らは組織的に政治過程の外に置かれている。そのことは、定住移民の政治的自由を制限する(例えばドイツのような国で、合法的に定住している長期のドイツ住民が市民権の取得がきわめて困難である)だけでなく、社会的統合をもさらにいっそう困難にしているのである。
 主に歴史の偶然から、イギリスはこの問題を決定的に免れてきた。これは、投票権が連合王国(United Kingdom)において、帝国のつながりの中で(イギリスの市民権ではなく)与えられ続けてきたからである。すなわち、連邦(Commonwealth)のいかなる市民も、イギリスに定住が認められると即座にイギリスの投票権を取得するのである。イギリスへの非白人移民の大半は連邦諸国(インド、パキスタン、バングラデシュ、西インド諸島、ナイジェリア、ケニヤ、ウガンダなどといった国々)の出身者であるため、永住のために到着すると、彼らは直ちにイギリスにおける参政権を得たのであった。このため、各政党は、移民の票の獲得にきわめて真剣となり、このことがイギリスにおける初期の人種主義的政策に対するブレーキとして作用したことは明らかである。
 このことが、イギリスが極端な人種主義的主張を回避できた一つの理由であることは明らかである。例えばドイツでは、ビジョンを持った多くの政治指導者や熱心な市民の最良の努力にもかかわらず、そうした主張が見られるのである。移民のコミュニティから(彼らを攻撃するよりもむしろ)支持を得ようという政治的誘因は、イギリスにおける移民の政治的自由と社会的統合の双方において、一定の重要な要因であり続けた。フランスの状況は、どちらかといえばイギリスとドイツの中間である。政治的権利をより容易に付与することによって、ドイツとフランスにおける移民のコミュニティが選挙政策において組織的に攻撃を受ける傾向が減少するようになるかどうかを検討することは、興味深い点である。
 これは、いっそうの研究なしには推測できないテーマであるが、所得分配という狭い箱に検討を限定した場合と比べて、広義の不平等の検討がいかに多様であるかを明確にするために、この点を述べたものである。重要な不平等にわれわれが真に関与しようとするなら、所得分配をその一部とする、不平等のその他の側面に加えて、政治的・社会的立場の不平等に関心を払わなければならない。

◆欧州と米国の対照 (Contrasting Europe and America)

 「評価の場面」に焦点を当てる必要性を強調する、第三の理由は、合衆国と西欧の不平等の状況を比較することから学ぶ可能性である。所得の不平等にもっぱら焦点を当てることは、不平等を抑制し、合衆国が経験した所得の不平等の類を回避する点で、西欧が合衆国よりもはるかにうまく対処した、という印象を与えることになる。所得の「場面」では、西欧は事実、全体として不平等の水準と傾向の双方においてより良い記録を残した。これは、Tony Atkinson、Lee Rainwater、Timothy Smeedingが作成し、OECDでの研究において報告された注意深い調査、『OECD諸国における所得分配』が明らかにした通りである(OECD、1996)。合衆国においては、所得の不平等に関する通常の尺度が、全体としての大西洋の欧州側の場合よりも高いだけでなく、所得の不平等の進行も、大半の西欧諸国で起こらなかったような形で発生した。
  そこで所得から失業に視線を移してみると、状況はまったく異なってくる。大半の西欧諸国で失業が劇的に上昇したのに対し、合衆国ではそうした傾向がなかったのである。例えば、1965〜73年の時期に合衆国における失業率は4.5%だったのに対して、イタリアでは5.8%、フランス2.3%、そして西ドイツでは1%以下であった。今では、このイタリア、フランス、ドイツの、欧州3カ国のすべてが、約12%の失業率を抱えているのに対して、合衆国の失業率は依然として5%以下である。失業が生活を台無しにするとすれば、経済的不平等の分析では、何らかの形で失業を考慮にいれなければならない。所得不平等の動向比較は、欧州にうぬぼれの口実を与えるが(欧州における幾分島国的=偏狭な議論の中で、しばしばとられているように思われる)、不平等についてより広い視野をとるなら、そうした自己満足は、根本的な疑問をつきつけられる可能性があるのだ。
 西欧と合衆国の比較は、他の興味深い――そしてある意味でより一般的な――疑問を引き起こすことになる。アメリカの社会倫理では、生活の資を欠く貧しい人々をまったく支援しないことも可能である。これは、福祉国家で育った典型的な西欧人には受け入れられないあり方である。だが同じアメリカの社会倫理が、欧州では一般的な二桁の失業水準を、まったく耐えられないものと見ているのである。欧州は、注目すべき冷静さで、失業(無職worklessness)――およびその増加を受け入れ続けてきた。この対比から浮かび上がってくるのは、社会的責任と個人的責任に対する態度の違いである。これは若干のコメントを要する問題である。

◆失業とその重要な意義  (Unemployment and its relevance)

 失業にとくに関わって、さらに三つの問題がある。失業は、欧州における最も繁栄した諸国のいくつかにとって、中心的なジレンマである。われわれは、第一に、問わなければならない。正確には失業の何がそれほど悪いのか?と。低所得との関わりと並んで、生活をより困難にする道筋とは何なのか?第二に、ここで述べた欧州・合衆国の対比は、それぞれの「社会哲学」とどう関わっているのか。こうした態度の違いは、個人責任と社会的支援についての意見の違いにどう関連しているのか?第三に、現在の欧州における社会政策の必要という観点から、これらの異なる――そして対立するアプローチの主張を、われわれはどう評価すべきか?社会責任と個人責任についての異なるアプローチの、利害得失は何か?
 今日の欧州を悩ます失業は、多くの面から損害を与えており、われわれは異なる関心事を区分しなければならない。社会的レベルでは、失業手当の財政費用が欧州経済にとってより大きな負担の一つとなっている。だが失業者個人のレベルにおいても、失業の害悪(penalties)は、所得分配統計が示唆するよりも、はるかに巨大なものとなる可能性がある。以下の分析は、Sen,1997bによるものである。
 個々の諸問題は、もちろん相互に関連しているが、その各々がそれ自体重要であり、相互に区別されなければならない。それらの否定的影響は累積的であり、それらは個別に、また総体として、個人の生活と社会生活を掘り崩し、破壊している。失業が諸問題を引き起こす様々な方法を区別する必要があるのは、失業の本質と影響をより良く理解するためだけでなく、適切な政策的対応を考案するためにも、それが重要だからである。
  では、低所得との結びつき以外の、大量失業(massive unemployment)の多様な害悪とは何
か? そのリストには、少なくとも次の別々の事項が含まれなければならないだろう。
 
(1) 現在の産出の損失と財政負担
(Loss of current output and fiscal burden)
  失業は、生産力の浪費を伴っている。潜在的な国民的産出の一部が失業のために実現されないからである。このことはあまりに明白な問題であるから、これ以上の議論を要しないであろう(だがOkun、1962およびGordon、1984を参照)。だが、強調すべき点は、失業者の所得の損失だけでなく、集計された産出量の減少が他者に及ぼす影響にも目を向ける必要があるということである。事実、失業者と家族が国家によって支えられなければならない以上、移転される資源は、縮小された総生産からやってくる以外ない。それゆえ失業は、二つの異なるが相互に強化される道筋を通って、他者の所得に打撃を与えるのである。すなわち、失業は国民的産出を減少させるとともに、所得移転に振り向けなければならない産出の割合を増加させるのである。
 
(2) 自由の喪失と社会的排除
 (Loss of freedom and social exclusion)
 貧困に関する視野をより広くとれば、失業者の困窮の本質には、自由の喪失が含まれる。これは、所得の低下をはるかに超える問題である。失業状態に置かれた人は、社会保険によって物質的に支援されている場合ですら、意思決定の自由の大半を行使できないでいる。例えばSchokkaertとVan Ootegem(1990)によるベルギーの失業者の態度に関する研究は、多くの失業者に見られた広範な自由の喪失が決定的な困窮であることを明らかにした。
 「社会的排除」という概念に対する最近の関心は、他の人々がいつでも利用可能な機会を享受することについての、困窮した人々の自由の喪失を浮かび上がらせることに役立った。失業は、人々を社会的排除に追いやる、主要な要因となりうるのである。この場合の排除は、仕事に関連した保険などのような経済的機会だけでなく、コミュニティ生活への参加といった、社会活動にも当てはまる。まさにこの点こそ、職なき人々にとっての大きな問題になりうることなのである。
 
(3)技能の喪失と長期的な打撃
 (Skill loss and long-run damage)
 人々が「行うことから学ぶ」のとまったく同様に、「行わないこと」――仕事や実践の外に置かれることによって人々は「学ばない」のである。非実践を通じた技能の低下に加えて、失業者の信頼や制御感覚の喪失の結果として、失業は認識能力の喪失をもたらすことがある。動機づけと能力の関係を測ることは容易ではないが、実証研究(例えばLefcourt(1967),Lefcourt、GronnerudおよびMcDonald(1938))は、この影響が実際にはいかに強力でありうるかを明らかにした。
 
4) 精神的損傷
 (Psychological harm)
 失業は職なき人々の生活を台無しにし、大きな苦しみと精神的苦悶を引き起こす可能性を持っている。失業者についての実証研究、例えばJahoda、LazarsfeldとZeisel(1993)、Eisenberg
とLazarsfeld(1938)、Bakke(1940a、1940b)、およびHill(1977)は、この影響がいかに深刻になりうるかを明らかにした。事実、高失業は、しばしば自殺率の増加とさえ結びついている。これは、犠牲者が経験した事態の耐えがたさを示すものである(例えばBoor、1980、およびPlatt、1984を参照)。長期失業の影響は、モラルにとってとくに致命的なものとなる可能性がある(例えばHarrison、1976を参照)。精神的苦しみと動機づけ障害の関係は、近年Robert Solow(1995)によって啓蒙的――そして感動的に分析された。
 失業者の苦しみが、なかんずく、それと結びついた経済的困難にあることは当然である。1930年代の悪き古き時代以降、失業手当その他の社会的支援を通じて、その苦しみの強さはかなりの程度軽減されたとはいえ。低所得が失業の結果としての唯一の苦しみであったとすれば、国家による豊富な支援があるのだから失業はもはやそれほどの悪ではない、と主張することもできるだろう(何人かの欧州の評論家がそうしているように)。事実、ある者はこう主張している。すなわち、低賃金雇用を受け入れている勤勉なアメリカの貧乏人は、そのことによって、国家から十分な援助を受けて「たっぷりと支給されている」欧州の失業者より、もっと多くの苦しみの理由を持っている、と。
 このような議論は、かなりのうぬぼれと、失業を治療しようとしないことの一種の弁明であるばかりではなく、総じて説得力を欠いたものでもある。なぜならそれは、この種の大きな所得移転が相対的に低い費用で実施でき、経済に対する破壊的影響なしに無期限に続けることができる、という前提に立っているからである。現在の状況においてはますます明確なことであるが、そうした議論はとくに「精神的損傷」に対する回答としての説得力を失っている。なぜなら、ここで生み出される苦しみは、単なる低所得の問題であるだけではなく、他の種類の困窮にも関わる問題でもあるからだ。そこには、依存状態や(自分は)望まれておらず非生産的であるという感覚と結びついた自己への尊敬の念(self-respect)の喪失や落胆が含まれている(注2)。
 青年の失業は、青年労働者や(学校卒業者のような)労働者となる者の間に長期的な自尊心
(self-esteem)の喪失をもたらすことによって、とりわけ高い代価を支払わされる可能性がある(例えばGurney1980、Ellwood1982、TiggemannとWinefield1984、およびWinefield、TiggemannとGoldney1988を参照)。アメリカの研究(例えばGoldsmith、VeumおよびDarity1966a、1966b)に基づいて、この破壊的な影響がとくに若い女性にとって深刻である(Corcoran1982をも参照)ことを示す、相当な証拠が存在する。このような比較パターンが欧州にも当てはまるかどうかが検討されなければならない。青年の失業は欧州でますます深刻な問題となってきたし、欧州における失業の現在のパターンは、若い女性を含む若者たちにきわめて強く偏っているからである。
 
(5) 不健康と死亡率
 (Ill health and mortality)
 失業は臨床的に診断される病気や(より多くの自殺を通じてだけでなく)高い死亡率にもつながる可能性がある。このことは、ある程度まで所得と物質的手段の喪失の結果であるが、そうした(失業と病気・死亡率の)関連は、落胆や自己への尊敬の念の欠落、さらには長期失業によって生み出される動機づけの崩壊を通じても作用しているのである(例えばSeligman1975、Smith1987、およびWarr1987を参照)。
 
(6) 意欲の喪失と将来の労働
 (Motivational loss and future work)
 失業が引き起こす意気阻喪は、意欲の衰弱につながり、長期失業者をますますあきらめさせ受動的にする可能性がある。ある者は、失業者がより元気に対応して問題を克服することもありうると示唆することによって、これに反論している(例えばBrehm1966が描いた「リラクタンス」理論によって)。だが、より典型的な結果が、とくに長期失業の場合は、意欲の衰退とあきらめであることを示唆する、相当な証拠がある。このような意欲の衰退とあきらめは、DairtyとGoldsmithの調査(1993)が描いているように、将来のいっそう深刻な貧困とさらなる失業をもたらす可能性がある。
 高水準の失業からもたらされる意欲の喪失は、将来の雇用探しにとってきわめて有害なものとなる可能性がある。1930年代のウェールズの炭坑での失業に関する、自らの先駆者的研究に基づいて、Eli Ginzbergは次のように述べている。すなわち、「失業者の能力とモラルは、数年間の強いられた無為によって大きく損なわれ、その結果、仕事に復帰することを考えることさえ恐ろしくなっていた」、と(1942、p.49)。(この問題については、Solow、1995をも参照)。最近の研究は、この動機づけへの影響が、若い女性にとってとくに重要になりうることを示唆している(Goldsmith、VeumおよびDairty1996a、1996b参照)。
 こうした全般的問題は、「労働力」に数えられるもの全体の構成と変異にも関わっている。長期失業の影響は、労働年齢の人々を「労働力に入るが失業している」者と、「労働力の外にいる」者との区別を弱めることによって、深刻化する恐れがある。こうした状態(および前者の状態から後者へのありうべき移動)を区分することの実証的意義は、そこに巻き込まれた個々の人々の苦境にとってと同様に、経済の未来にとっても重要なものとなる可能性がある(注3)。
 
(7) 人間関係と家族生活の喪失
(Loss of human relations and family life)
 失業は、社会関係にきわめて分裂的に作用する恐れがある(例えばJahoda、LazarsfeldおよびZeisel1933、およびHill1977を参照)。それはまた、家族内部の協調と一体性を弱めることがある。ある程度まで、これらの結果は、(経済的手段の欠落に加えた)自信の弱まりに関連しているが、組織された労働生活の喪失はそれ自体が深刻な困窮となる可能性がある。加えて、アイデンティティの危機が、この種の分裂に含まれる可能性がある(例えばErikson1968を参照)。
 
(8) 人種的・ジェンダー的不平等
 (Racial and gender inequality
 失業は、ジェンダーの分裂と並んで民族的緊張を高める、重大な要因にもなりうる。仕事が乏しくなると、その影響をより強く受けるグループは、しばしばマイノリティ、とくに移民コミュニティの各部分である。このために、社会の主流の通常な生活に合法的な移民たちが容易に統合される見通しが立たなくなる。さらに、移民はしばしば雇用をめぐって競争する(あるいは他人から職を「奪う」)人々と見られているために、失業は不寛容と人種主義の政策を募らせる。この問題は、いくつかの欧州諸国における最近の選挙で、顕著にその姿を表わした。
 ジェンダーの分裂も、大規模な失業によって深刻化する。これは何よりも、女性の労働力への参入が、全般的な失業の時期にはとくにしばしば阻まれるためである。また、先述したように、若い失業者の意気阻喪の影響は、若い女性たちにとくに深刻であることが見出されてきた。かなりの期間における失業の後に彼女たちが労働力市場に再度参入することは、初期の失業(無職)経験によって深刻に阻まれることが考えられる。
 
(9) 社会的価値と責任感の喪失
 (Loss of social values and responsibility)
 大規模な失業がいくつかの社会的価値を弱める傾向を伴うことも、証明されている。持続的な失業に置かれた人々は、社会制度の公正に対する冷笑的な態度や、他者への依存の受容を募らせることがある。こうした結果は、責任や自立のためにはならない。犯罪と若者の失業との観察される結びつきは、もちろん、失業の物質的困窮に決定的に影響されたものである。だが、この結びつきには、精神的な影響も一役買っている。そこには、排除の感覚や、正直な生活を得る機会を失業者に与えない世界への不平の感情が含まれている。満足な職を持つ多数の人々と、失業し「拒否された」人間という少数派――しばしば大きな少数派にはっきりと分裂した社会においては、総じて社会的一体性は多くの困難に直面する。
 
(10)組織に関わる非柔軟性と技術に関 わる保守主義
(Organizational inflexibility and technical conservatism)
技術変化の性質と形態が欧州における失業とその持続に大きな影響を及ぼしている可能性が、最近の文献において分析され調査されている(例えばLuigi Pasinetti1993を参照)。失業に対する技術の影響は、事実、調査すべき重要事項であるが、別の道を通った結びつきもある。より良い技術の利用を制限することによる失業への影響である。広範な失業状況においては、現在の仕事からの配置転換が長期失業につながる恐れがある場合、仕事の喪失を含むあらゆる経済的再組織に対する抵抗が、とくに強くなる可能性がある。対照的に、失業の全般的水準がきわめて低く、配転された労働者がすぐに次の雇用を見つけることが期待される場合には、再組織に対する抵抗は少なくなろう。
 合衆国経済は、相対的に高い雇用率から、欧州よりも再組織と合理化が容易にできるという利点を得た、と論ずることができる。企業にいる労働者が、一般に、雇用を変えないですむ方を好むのは十分な理由があるのに対して、選択肢が失業しかなく、それも長期に続く可能性がある場合には、職を失うことの不利益はきわめて大きい。失業はこうして、組織的な非柔軟性を通じて、技術的保守主義につながり、それによって経済的効率性ならびに国際競争力を減退させる可能性があるのだ。同じことは、健康生活期間の拡大を理由とした退職年齢の引上げなどの、他の種類の組織的変更にも当てはまる。既に多くの失業を抱えた経済においては。そうしたあらゆる変化が、きわめて脅威的に思われるからである。こうした相互関係についての疑問には、政策課題との関係で、以下、再度立ち帰ることとする。

◆診断と政策(Diagnosis and policy)

 高水準の失業は今や欧州での標準的事態になっており、それによる社会的費用は実に重い。これらの費用はすべての人の生活を先細りさせるが、長期失業とそれによる広範な損害に深刻に苦しむ家族を抱えるマイノリティ――大きいマイノリティにとって、とりわけ厳しい。
 こうした寂しい事態は、経済的な議論ならびに政治責任と指導性を要請している。経済的側面では、様々な目的と結びついた雇用政策の検討が必要である。そこには需要管理やマクロ経済的検討が含まれるが、さらにそれらをはるかに超えるものでもある。市場経済は様々な種類の費用と便益について知らせるが、先に論じたばかりのように、いくつかの多様な道筋から発生する、失業のすべての費用を適切に反映するものではない。こうして公共政策が必要とされるようになる。それは、市場経済において十分に反映されない、失業の負担を考慮にいれるものである。このことは、より多くの人々を雇用する傾向を増大させることができる、様々な種類の促進制度を検討すべきことを示唆している。この点は、Phelps(1994a、1994b、1997)、Fitoussi(1994)、FitoussiとRosanvallon(1996)、Lindbeck(1994)およびSnower(1994)、その他の最近の調査がいずれも示した通りである。失業はまた、それに振り向けられている公共活動(public action)の潜在的な有効性を吟味することを求めている。公共活動は、実勢価格(effective prices)の調整だけでなく、次の目的のためにより多くの機会をつくりだすことによっても働きかけるものである。すなわち、適切な訓練と技能養成や、労働に親和的な技術に関するより多くの研究、労働市場をより柔軟かつ制約を少なくするための制度改革である。

◆高齢者と増加する従属人口 (The aged and the rising dependencyratio)

  労働、報酬および安全の諸問題を区分けする見方をとると、相互に人為的に分離された社会的関心を生み出す可能性がある。一例が、アメリカやその他世界の多くと同様に欧州でも進み、多くの議論を呼んでいる高齢者人口比率の増大という問題である。この問題は、高齢者を支えなければならないより若い人々にますます耐えがたくなる負担を課すことであると、しばしば見られている。だが多くの場合、労働能力や適性を伴った期間がいっそう拡大しているのである。肉体労働の必要がより少なくなっている仕事ではとくにそうである。年齢構成の上昇という問題に対処する一つの方法は、したがって、退職年齢を引上げることで、これは従属人口比率(働いている人々に対して依存する人々の割合)を減らすことに役立つのである。だが、このことは若い人々が雇用を得ることをいっそう困難にする、と考えられるかもしれない。こうして雇用問題は、年齢構成問題においても同じように根本問題なのである。
 一例を挙げると、失業率の低下は、失業者が(労働年齢の人々でなく)現に働いている人々に対する従属人口に数えられているとすれば、直ちに従属人口比率を縮小することとなる。だが、より本質的には、仕事の機会を拡大することによって、失業した若者だけでなく、老化を待たずに退職を強いられた丈夫な人々(able−bodied people)をも吸収することができるのである。
 これらの問題は、相互に依存している。その相互関係には、実際の仕事の機会と社会心理の両方が含まれる。失業が多くの人々を悩ます恒常的な脅威となっている状況においては、退職年齢を引き上げようとするどんな提案も、恐ろしくかつ後退的なものと見られる。だが、雇用機会を調整してはならないという理由はないのだから、(退職年齢の引上げのように)より大きな規模の労働力に向けて、時間と柔軟性があるなら、そこには動かしがたい障害はない。われわれは、より大きな人口の国が、そのことを理由に、仕事を求めるより多くの人々がいるのだから、より多くの失業を抱えるべきだ、などと仮定しようとはしない。調整の機会を前提とすれば、労働の利用可能性は、労働人口の規模に合わせることが可能である。失業はそうした調整の障害から発生するのであり、退職年齢の引上げ、したがって労働力の増大の可能性を否定する口実にしてはならない。
 年齢構成の上昇という長期の構造的問題は、かなりの程度まで、単に欧州における高水準の失業という現在の状況に囚われたものである。合衆国において強制退職年齢の引上げ――現実には撤廃――がほとんど困難なく行われたのは、驚くべきことではない。そこでは欧州よりも失業率がかなり低かったからである。このことは、それ自体で、すべての年齢構成問題(とくに高齢者の医療ケア費用の増大)を除去するわけではない。だが、退職年齢の引上げは、従属の負担を軽減することに大きく役立つのである。失業の様々な影響を検討すると、その害悪がいかに広範囲にわたるかが見えてくるのである。
 失業に関連した様々な種類の費用に留意することは、このような巨大な問題に対する適切な経済的回答を追究する上で、重要である。多くの広範な影響を無視すると、失業が生み出す害悪の大きさが容易に過小評価されてしまう恐れがあるからだ。

◆欧州、アメリカおよび自助の必要(Europe,America and the requisites of self-help)

  欧州における失業の深刻かつ多面的な性格を踏まえると、この問題に取り組む政治的関与の必要が、今日、とくに強まっている。それは、欧州連合が関与の場を提供できる課題である。近年欧州では、赤字予算や公共債務の協調的削減の必要が数多く論じられている。マーストリヒト条約は、国民総生産(GNP)に対する赤字の比率や、これより幾分緩やかではあるが、GNPに対する公共債務の比率に関する基準を定めた。これらの条件と、単一欧州通貨の発行に向けて告げられている計画との関連は、容易に評価できることである。
 欧州の失業を全面的に削減することを求める公式に宣言された「イベント」はないのであるが、そうした動きの社会的緊急性は否定しがたいことであろう。失業の様々な害悪は、欧州中の個人生活と社会生活に深く食い入っている。欧州連合のほとんどすべての国における失業問題の深刻さを踏まえると、適切な回答は、純粋な国ごとの関与というよりも、欧州としての関与であることは、明確であろう。また、欧州各国間の人々の自由な動きを踏まえると、雇用政策が一定の調整を必要とすることは確実である。赤字予算の削減の解決策を確立する過程では、失業を削減するための統一的な取り組みは見られなかった。失業の害悪に関して、やや不適切な公的対話もあった。倫理的・政治的取り組みの形成についての、公的対話の役割は、とりわけ困窮に対処する場合、きわめて中心的なものとなる(これについてはAtkinson、1996およびそれ以降を参照)。
 欧州において優先順位を得る政治的関与の種類と、合衆国で支配的なそれを対比することは興味深い。一方では、アメリカの行政はすベての人に対する基礎的ヘルスケアの供給にほとんど関与していない。このことは、実際に3,000万人以上の人々がこの国ではいかなる種類の医療も適用されないか保険を受けられないでいることからも明らかである。同じような状況が欧州で起きたら、政治的に耐えられないだろうと思われる。貧困者や病人に対する政府支援の限度も合衆国では厳しく、欧州ではまったく受け入れられないものであろう。他方で合衆国では、二桁の失業は政治的なダイナマイトになるだろう。アメリカのいかなる政府も、現在の失業率を倍化したら、無傷ではいられないだろうと私は信ずる。ちなみに、そのときでも合衆国の失業率は現在のイタリア、フランスないしドイツの失業率をなお下回っているのである。それぞれの政治的関与の性格は、根本的に異なっているのである。
 この対比は、ある程度までは、自らを助けることができる(自助)という価値が、欧州に比べてアメリカでははるかに高いという事実に関わっているだろう。この価値は、すべてのアメリカ人に対する医療ケアや社会保険には翻訳されない。領域が違うのである。公共政策決定において貧困や困窮を無視する傾向は、アメリカの自助文化の中では、とくに強い。他方、雇用の否定は自助の機会の確保を根底から脅かすものであり、この問題に関する公約は合衆国でははるかに多い。こうして、アメリカの自助文化は、医療保障のない状態や深い貧困に落ちていくことへの対処よりも、はるかに強力な関与を失業に向けて提供しているのである。
 今日、この対比は検討に値する。欧州は、国家が人々のために物事をするよりも、人々が自らを助ける能力により大きな強調点を置くように、ますます説得されている。こうした強調点の移動は極端にもなりうるが(欧州文明にとって、深い貧困や医療ケアの欠落に対する福祉国家の基礎的な保護を失うことは、実に寂しいことであろう)、こうした方向での大掛かりな再検討(major rethinking)は重要かつ、必要であり、待望されるところである。自助をより強調する必要は、来るべき数年間において、欧州でより多くの支持を得ることになるだろう。
 自助のより大きな役割が求められていることを検討するなら、きわめて高水準の欧州の失業を大幅に削減すること以上に、重要なことはない。言うまでもなく、こうした失業こそ、国家の移転支出という重い負担をつくりだしているものである。加えて、個人、とくに若者が無職になる可能性が高い状況は、自立の精神を準備するためには相応しくない。学卒者が職を見つけられず、国家に支えられることが必要な状態に直ちに落ちていくような現状は、自立を考えることを奨励するような環境とは言えない。
 私は次のようなことまで論じさせてもらいたい。それは、人々がもっと自立することを望みなが
ら、同時に欧州の現在の失業水準を「遺憾ではあるが耐えられる」ものと見るのは、根本的な政治的分裂症ではないかということである。労働者のあるグループにとって職がほとんど入手不可能なときに、「自助」を忠告することは無用かつ残酷なことである。自助が可能になるためには、経済的・社会的関係の中で他者の手が必要なのである(Adam Smith1776が、2世紀以上前に述べているように)。有償雇用の機会は、依存を避ける最も単純な方法の一つである。
 公共的価値と私的な徳という意味において、欧州は、世界のその他の部分と同様に、今、まさに岐路に立っている。逆境にある人々に対する社会的支援という古い価値は、自助の重要性の主張が強まるとともに、きわめて速く――恐らく速すぎるほどに、弱まりつつある(注4)。そしてまだ、人々が自らを助けること(自助)ができる社会を持つことの、政治的・経済的意義は、まだ適切には把握されていない。雇用機会は、その連鎖の決定的な環である。
 社会倫理のアメリカ的なバランスに問題がない、というのは私の主張したいことではない。まったく逆である。合衆国についていうなら、自助の哲学が深刻な限界を持っているという事実、公的支援が医療の適用やセーフティーネットの供給においてとくに重要な果たすべき役割を持っているという事実を、理解できるようにならなければならない。アメリカの一部の仕事が低賃金であることは、しばしば指摘されているが、事態はこの面でも確実に改善可能である(注5)。だが、次のように論ずることもできる。すなわち、恐らく低賃金以上に重要な失敗は、すべての人――豊かな者と貧しい者に対するヘルスケアや、より良い公共教育ならびに平和なコミュニティ生活の要因を発展させる必要をアメリカが無視したことである、と。
 この必要を無視したことが、合衆国において社会的に困窮したグループの間で高い死亡率を生み出した要因の一つである。例えば、アフリカン・アメリカン――アメリカの黒人は、老齢人口に達する機会が、中国ないしスリランカ、あるいはケララ州のインド人よりも低いのである(Sen、1993参照)。第三世界のこれらの人々が合衆国の住民よりもはるかに貧しい(そして、アメリカ黒人と比べても貧しい――アメリカ黒人は、例えばケララ州のインド人と比べて、一人当たりの所得で20倍も豊かである)という事実は、アフリカン・アメリカンの生存における比較劣位をいっそう不可解なものにしている。
 ちなみに、アメリカ白人と比べたアメリカ黒人の、はるかに高い死亡率は、合衆国内の様々な所得変動を調整した後においても、統計的に立証されている。死亡率の差は、暴力による死とだけ結びついているものではない。それは、メディアがアフリカン・アメリカンの低い寿命を説明するときにしばしば描くステレオタイプである。実際には、暴力による死は若い黒人男性にとってだけの大きな要因であり、さらにこのグループの高い死亡率にとってもその一部を説明するものでしかない。実際には、アメリカ黒人の死亡率の劣位は、女性や高齢者にも明確に当てはまることなのである(注6)。

◆結論(a concluding remark)

 アメリカが外聞をはばかる秘密を持っている(食器棚に骸骨を持っているhas skeleton in its cupboard)という事実は、欧州のうぬぼれの理由にもならないし、アメリカの社会倫理における雇用に対するより健全な敬意や、雇用政策に対するその影響から学ぶことのできる、きわめて重要な教訓を無視する根拠にもならない。欧州は、自助の哲学の現実的必要をもっと認めなければならない。欧州は、そうしたアプローチと結びついた社会的要請を把握することなしに、自助の哲学にますます引きつけられている。耐えがたいほど高水準の失業が、自助を可能にする社会の土台を掘り崩すことは確実である。失業の害悪は、所得の損失を伴うだけではない。それは、自信
(self−confidence)や勤労意欲(work motivation)、基礎的能力(basic competence)、社会的統合(social integration)、人種間の協調(racial harmony)、ジェンダー的正義(gender justice)、個人の自由と責任の承認と行使(appreciation and use of individual freedom and responsibility)といった広範囲な影響を含んでいるのである。
 注目すべき重要課題は、各種のアプローチのより成功的な特徴を結合する可能性である。例えば、欧州のヘルスケアにおける経験には、積極的な特徴があり、合衆国はそこから学ぶことができる。他方では、雇用に対するアメリカの積極的な態度に明らかな、個人の自由と柔軟性に対する敬意には、欧州に提供できるものが多い。欧州の政策指導者が自助の哲学にますます引きつけられていることは理解できる。そうした哲学が多くの優れた特徴を持ち、自助を可能とする社会的背景の上に、適切に位置づけられるならきわめて有効だからである。だが、そうした社会的基礎づけ(social grounding)は、特別な注意と政策的対応を必要とする。雇用の拡大は、なすべき事柄のリストのまさにトップに置く以外ない。かくも多くの失業が、現代欧州においてかくも容易に黙認されていることこそ、驚くべきことである。
 
 
1:例えば、数年前にある大学でゲスト・スピーカーとして講演した際、私の話に選んだ「経済的不平等」という題が、「所得の不平等」に変更されていることに気づいた。この変更の理由を尋ねたところ、ホストの答えは、「何が違うのですか」というものであった。
注2:人間の生活における労働の役割が単なる収入の獲得に限定されないことについては、Marx(1844、1845−46、1875)によって広範に論じられた。
注3:ClarkとSummers(1979)、HeckmanとBorjas(1980)、FlinnとHeckman(1982、1983)およびGoldsmith、VeumとDarityが提出した研究――および彼らの間で交わされた討論を参照。
注4:福祉国家「後退(roll back)」の提案に対する説得的な批判としては、Atkinson1997を参照。関連する問題について、Van Parijs1995も参照のこと。
注5:雇用と手取り賃金を同時に増加させる必要は、とくにFitoussiとRosanvallon(1996)、およびPhelps(1997)によって強調された。
注6:この点については、Sen1993、およびそこで引用した医学的参考資料を見よ。

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