『協同の發見』2000.1No.93
『協同の發見』目次

巻頭言

若者たちの中に、新しい働き方への
模索が始まっている


佐藤 洋作(学習文化協同ネットワーク)

 子どもや青年たちは、社会にはびこる虚偽や堕落を、鋭く敏感に感じ取るものだ。受験戦争に象徴される詰め込み教育は、自分のための勉強ではなく、単に自分が社会の中で仕分けられるための手段に過ぎないものであることに気づき、多くの子どもや青年たちは、今や「学びからの逃走」を開始している。

 そもそも、彼らは親世代のように「会社人間」という生き方に、自分の社会的アイデンティティーを重ねられなくなっているから、より優良な会社人間になるための手段でしかないとしたなら、そんな学びがもはや彼らを吸引する力を持ちえなくなっているとしても、なんら不思議はないのである。利潤追求第一の価値観に同化し、ただ会社のために勤勉に働くだけの労働倫理は過去のものとなりつつある。だからといって、彼らは、仕事は仕事趣味は趣味といった、わりきった生き方にも、飽きたらなさを感じ始めているようにも窺える。

 じゃあ、どうしたら自分たちは活き活き生きていけるのか? 自分を生かす仕事って何なんだろうか? そもそも、自分はいったい何がしたいのか? 一見、ぷらぷらと浮遊しているように見えたり、勤めた会社は三年ともたない、なんとも頼りなさそうな現代の若者たちではあるのだが、彼らはどうやらこのような重い「問い」を抱え込み始めているようである。なんとか受験勉強も乗り越えて「ブランド大学」への入学を果たしたものたちだって、抱えているものは何ら変わりはない。「がんばってきたのに、何も見えてこないではないか」と訴える大学生たちに、心が痛むのである。

 なぜ今日、子どもたちは荒れるのか、あるいは、沈黙の殻の中に閉じこもるのか? それは、大人たちの虚偽やうそっぱちをとうに見抜き、イライラを募らせてきた果てに、彼らが、自分のぎりぎりの尊厳を守るための、身体を張った異議申し立てをしているのだ、と考えてみる。不登校の子どもや、高校を中退していく若者たちの声に耳を傾けていると、彼らの「もうやりきれないよ」という悲痛な声が聞こえてくる。学歴社会の向こうに自分らしく生きることのできる社会が拓かれることなくして、彼らの願いにも応えることはできない。

 一気に高度経済成長を駆け上り、一定の「経済的な豊かさ」を享受してきた日本だが、20世紀も終わろうとする今、ようやく「本当の豊かさ」を求める時代にさしかかりつつある。その中で、若者たちはいち早く、利潤追求から自分らしい生き方追求へと価値観をシフトし始めている。いわゆる「自分さがし」の中で、若者たちの価値観は大きく揺れている。そんな若者たちと接しながら、彼らに、ポスト企業社会時代のオルタナティブな生き方と、そこへと至る道筋を示せればと願い続けてきたのだが、自分たち大人にだって、もとよりそんな明確なイメージなんて持ち合わせはないのである。それではと、彼らと一緒に、「脱会社人間」の働き方や生きざまに出会ってみよう、そんな出会いを繋げていきながら、脱企業社会の働き方のイメージを豊かにつくりあげることができれば、と長い間思い望んできた。そしてその発想が、私たちのNPO組織「文化学習協同ネットワーク」の機関誌刊行企画の中に流れ込み、新しい働き方・つながり発見マガジン、季刊『カンパネルラ』の誕生へと繋がった。しかも、その雑誌は若者たちの取材と編集で制作されることになった。若者自身が、さまざまな生き方や働き方、あるいは自己形成像に出会い発見し、ルポしたり語り合うことを通して、雑誌づくりの過程そのものが、彼ら自身の「自分さがし」の学びになるはずである、という思いつきからであった。若者自身が語る若者論。ここにこの雑誌の制作スタイルのおもしろさ、企画の新しさがある、と自賛している。「カンパネルラ」とは、ご存じ宮沢賢治寓話の登場人物の名前。それとスペイン語で「ともだち」を示すコンパニョーラという音を重ねたもの。

 さて、私たちの雑誌発刊は大いにマスコミに乗って、日本中の若者から大きな反響が寄せられた。「長いこと親がかりで生活してきたが、自立して働く道を探りたい」、「地方にいてひとりぼっちです。カンパネルラと一緒に私も成長したい。がんばって」という手紙や、「言葉に障害があるがインターネットで編集に参加したい」という障害のある若者からの電話。その一方では「音楽一筋できたから、もっと他の生き方も見てみたい」と編集スタッフに加わった音大生、などなど。編集委員は、およそ50名に膨れ上がった。 

 中には、「私はいい会社に入るつもりですが、でも、実は会社に奉公してすてられちゃうのはこわい。でも、自分は大丈夫かなと思うけど、でもちょっと冒険もしてみたい、みたいな。でもそんな勇気ないから、人の生き方のぞき見て、した気になって、ついでに鼓舞されて踏み外してみっよかな」と、編集スタッフに加わってきた、いわゆるエリート大学生もいる。何を贅沢なと笑わないでください。彼女もまた、戯けて見せながらも、価値観の揺れに対して、目を背けずにしっかりと向き合っているのだから。

 学校で「成功したもの」も「そうでないもの」も、まだ自覚されていないとしても、彼らは企業社会の向こうに、もっと手触りのあるライフスタイルを真摯に探し求め始めている。時代が大きく転換しようとしている今、たとえ未だ迷いの渦中にあるとしても、若ものたちは「自分らしさ」にこだわりながら、新しい働き方、生き方を模索し始めていると言っていい。そして、彼らの新しい生き方とは、共生のイメージに包まれているはずだ。競争原理優先で人がバラバラになってしまった時代の中で、競争の教育によってとことん傷つけられてきて、今若者たちの中には人と人との柔らかい結びつきへの切実な願いが大きく膨らみつつある。

 それにしても、発刊する度におよそ百万円の制作費だから、いささか大胆な、と言うより、無謀な実験ではある。「勇気ある、価値ある実験であった」と、後々賞賛されることがあるようなら、幸いなのだが。

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