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論文 | ||
非営利・協同運動の現代的構図 ――社会運動と社会的経済―― Contemporary composition of the social movement for the not-for-profit and co-operation : The social movement and the social economy |
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内山哲朗(東京都/明治大学)
目 次 はじめに──問題の設定── 1 社会運動と非営利経済事業 2 現代の社会運動と「連帯革命」 3 非営利・協同運動と<経済=生活> 4 非営利・協同運動と社会的経済 5 非営利・協同運動と協同労働 6 非営利・協同運動と「新しい労働運動」 小 括 参考文献 はじめに──問題の設定── 本稿の目的は、現代の社会運動としての非営利・協同運動をめぐって相互に連鎖する三つの問題領域(@社会的経済、A協同労働、B労働運動)を取り上げ、非営利・協同運動の社会運動としての現代的性格を把握するための主たる論点の所在を確認することである。この三つの問題領域の関連についてあらかじめ述べておくとすれば、@非営利・協同運動に発する経済事業の総体をつかむ概念である社会的経済について、あらためて社会運動の視点からする把握が重要であること、A社会的経済を担う労働のあり方として、協同労働が枢要の意味をもつこと、B労働のリファレンス・システムとして協同労働という概念を立てることによって、労働運動に課される新しい課題が明らかになること、と整理することができる。 以上の議論をふまえていえば、社会運動としての非営利・協同運動をめぐる実践と研究の今後の発展のためには、問題構成を見通すことのできる≪非営利・協同運動の理論≫の枠組みづくりが必要とされるであろう。本稿は、「労働のあり方」「働き方」を中心としながら、<社会運動と社会的経済>という両者の相互一体性に立脚する視点にたって、≪非営利・協同運動の理論≫を構想するための準備作業でもある。 1 社会運動と非営利経済事業 「社会的経済」への関心がいま静かに広がりを見せている。近年における社会的経済への関心の焦点を集約してみると、@高失業時代を反映した「雇用問題」とのかかわり*1、A「雇用問題」の系論としての「働き方」論とのかかわり、B経済のグローバル化が市場原理主義に依拠して「暴力的」なまでに強行されることで、反転するように却って重視されるようになった暮らしの場である地域コミュニティの再生論とのかかわり、C以上をトータルに総括するような、「経済のあり方」「人間のあり方」「自然環境のあり方」*2等々を含む「全体としての社会のあり方」*3の問い直しとのかかわり、が指摘できるであろう。社会的経済がはらむ、社会に対する問題提起の幅はきわめて大きなものである(概念としての「社会的経済」については、社会運動の視点から後にふれる)。 ここで特に注意をしておきたいのは、社会的経済の形成の背景には特有の社会運動が存在するという点である。言い換えれば、社会運動が人びとの協同に基づいて、社会問題の解決という社会的な目的の実現のために「公共経済でもなく営利経済でもない第三の非営利経済」の形成をみずから進めていくのである。それは、運動性と事業性を併せもつ社会運動であり、本稿では「協同のイニシアチブに基づく非営利経済事業を伴った社会運動」という意味で「非営利・協同運動」と総称する。 一般的にいえば、「社会運動」とは、社会の構造的変動が引き起こすさまざまな社会問題に対して、その解決のために人びとが起こす集団的・組織的な行動を指す。それは、運動当事者たちの社会的位置、社会的属性等の相違によってさまざまな現われ方をとってきた。階級・階層、あるいは運動が掲げるイッシューの違いによって、労働組合運動、住民運動、市民運動、学生運動、女性運動、障害者運動、高齢者運動、消費者運動、公害反対運動、環境保護運動、平和運動等々といった諸形態が生み出され、部分的には各種運動間における相互の重なり合いも見せながら展開されてきたものである。同時にそこでは、「伝統的な社会運動」「新しい社会運動」といった区分もなされてきた。 ところで、非営利・協同運動も、「社会問題の解決という社会的目的を実現するために、人びとが協同に基づいて結合する集団的・組織的行動」を指すという意味においては、これまでの社会運動と同様、社会運動の一つの形態である。したがって、非営利・協同運動は、社会運動のポートフォリオに新たに加えられるものである。さらに、社会運動一般が問題解決のための最終的な場面において政治変革の要求に向かう性向をもっていたとすれば、非営利・協同運動もまた、政治、政策論との接点をもつという点においては同様である。 2 現代の社会運動と「連帯革命」 非営利・協同運動はしかし、「運動が運動として完結する」というより、社会運動としての展開において運動性と不可分なかたちで事業性を伴う「独自な社会運動」のかたちをとり、いわば運動が経済を媒介して社会問題の解決を志向するという、社会・経済・政治という多様な領域へと連鎖する性格を有しているのである。こうした非営利・協同運動が世界的な大きなうねりとして認識されるようになって、それが現代社会における「連帯革命associational revolution」(R・サラモン[1994]401頁)とまで呼ばれるようになったことはすでによく知られているところである。こうした文脈において、非営利・協同運動、すなわち「協同のイニシアチブに基づく非営利経済事業を伴った社会運動」をさしあたり「現代の社会運動」と呼ぶこともできるであろう。*4 非営利・協同運動が運動性と事業性を併せもつという点に関して一つ付言しておくとすれば、社会運動に事業性が伴うがゆえに、そこには功罪もまた伴うという点である。社会運動が非営利経済事業を通じて経済のあり方の変更必要性を実際的なかたちで萌芽的に提示するという「功」をもつと同時に、社会的経済を取り巻く資本主義経済の競争至上主義という圧力に対して、事業主義をもって対応する結果、社会運動としての活力を失って運動および事業のともどもの終息を招来するといった「罪」もまた、蓋然性の低い例外事例では決してないのである。 社会運動に事業性が伴う際の「功罪」との関連でいえば、社会的経済の中心的担い手である協同組合の国際組織・ICA(国際協同組合同盟)第27回大会(1980年)報告『西暦2000年の協同組合』が、世界の協同組合運動の歴史を振り返りながら、協同組合運動は「三つの危機」を経験してきたと指摘していたことがただちに想起されるであろう。すなわち、@協同組合という考えそれ自体が社会から信頼を得られなかったという「信頼性の危機」、A信頼性の危機を克服して「善良で望ましい組織」として社会から認知されたとしても、協同組合に適合的な事業経営のあり方が構築できずに「協同組合という名称は事業の失敗とほとんど同義語である」とされた「経営の危機」、B経営の経験を積み重ねながら「効率的で近代的な事業体」として徐々に経営の危機を乗り越えてきたものの、今度は逆に、協同組合運動の「本来の目的」「独自の役割」を見失い、「他の企業と同様、商業的な意味での能率向上によって成功する、という以上のことは何もやらない」状況を生み出すような「思想性の危機」である(日本協同組合学会編訳[1989]14-16頁)。 当然のことながら、「三つの危機」はそれぞれ単発で現われるというより、“複合危機”へと転化する危うさをつねに伴っているものである。思想性の危機とは、まさに“アイデンティティの危機”に他ならないのではあるが、そうだとすれば、どこに危機回避の足掛かりを求めるのか──このことは、現代の協同組合運動にとってのもっとも本質的な課題である。そしてまた、それは、ひとり協同組合運動にかぎらず、現代の社会運動としての非営利・協同運動全体に課せられている共通の課題でもあるといわなければならない。 3 非営利・協同運動と<経済=生活> 「協同のイニシアチブに基づく非営利経済事業を伴った社会運動」としての非営利・協同運動が「公共経済でもなく営利経済でもない第三の経済領域としての非営利経済」、すなわち社会的経済の形成を促すというとき、社会的経済という概念を把握するにあたってその出発点として不可欠なのは、何よりもまず「経済とは何か」を繰り返し再確認しておくことである*5。というのも、社会的経済とはいかなる意味における経済であるのかを確認するためには、まずもって経済に関する理論認識が前提となるからである。 「経済」とはそもそも、人びとの暮らしに必要な財・サービスを社会に行き渡らせるための生産・流通・消費・廃棄の諸活動の総体*6であるはずである(<経済=生活>)。ここでいま、経済および資本主義市場経済とをめぐって確認すべきは、第1に、市場経済とて、<経済=生活>から離れることはできない、という点である。商品経済あるいは市場経済とは、商品という形態をとった、生活が必要とする財・サービスを、貨幣という媒介手段によって、市場という場で交換するシステムである。このかぎりでは、生活が必要とする財・サービスが目的であって貨幣は手段にすぎない。まさに<経済=生活>である。しかしながら、媒介手段としての貨幣(貨幣としての貨幣)を基点にしつつ、貨殖・蓄積手段としての貨幣(資本としての貨幣)が重なり合う事態へと展開するとなると、貨幣増殖(営利)を目的とする投資を通じた利潤獲得が規定的動機となって、市場経済は資本主義市場経済へと転化する。まさに<経済=資本としての貨幣>である(以下、<経済=貨幣>と略記)。ここで経済の本来的な目的(暮らし・生活)とそのための手段(貨幣)との関係は転倒する*7。すなわち、市場経済も<経済=生活>から離れることはできないとしても、<経済=生活>は<経済=貨幣>が成り立つかぎりで意味をもつに過ぎなくなる(営利の目的化・生活の手段化)。そして、この転倒関係が浸透し恒常化することによって、<資本主義市場経済=市場経済一般>という図式が完成し、したがって<経済=生活>という経済の本来的な意味も徐々に後景に退いていき、かわって<経済=貨幣>という観念が社会をとらえて一般化することになるのである*8。 第2に、<資本主義市場経済=市場経済一般>という図式のもと、<経済=貨幣>が成り立つかぎりでしか<経済=生活>は意味をもつに過ぎなくなるのだとすれば、<経済=生活>のうち、貨幣増殖に役立たないものは<経済=貨幣>のリストには算入されない、という点である。端的にいえば、<経済=生活>がすべて資本主義市場経済のみによって覆われることはないのであって、<経済=生活>が商品(市場)で担われる部分と非商品(非市場)で担われる部分とに分化されていく、ということである。もちろん、<経済=貨幣>が<経済=生活>を侵食していくのが資本主義市場経済の拡張論理であり、「シャドウ・ワーク」(I・イリイチ[1982])と呼ばれる領域が徐々に商品化・市場化されて「普遍的市場」(H・ヴレヴァマン[1978])の成立がいわれもするのであるが。要するに、<経済=生活>がその「大きな部分」を資本主義市場経済によって占められるとしても、それが全体に対する部分であることには変わりはないのである(<経済=生活>⊃<経済=貨幣>)。 4 非営利・協同運動と社会的経済 以上のように<経済=生活>という経済の本来の意味を再確認したうえでいえば、<経済=生活>という全体領域の中には、資本主義市場経済としての「営利経済」、国家を背景とした「公共経済」、そして「営利経済」にも「公共経済」にも含まれない「第三の経済」が存在する、という整理が可能である。そして問題は、「第三の経済」である。「第三の経済」という呼称からしてすでに示唆されているように、それは「営利経済」によっても「公共経済」によっても充足されえない<経済=生活>の領域であることがただちにうかがわれる。 そして、<経済=生活>におけるニーズの不充足は時間軸でみれば、ときどきの条件しだいで伸縮することを、歴史の経過をふりかえるまでもなく私たちはしばしば目の当たりにするのである。その好例が、社会保険方式への「福祉のあり方」の転換という名のもとに進められた、介護サービスの「公共経済」からの排出であろう。「公共責任」で担われてきたサービスが主要には財政節約の論理によって他の経済領域へと移転させられるのである。その際、「営利経済」における「シルバー産業」を主要なアクターとしつつ、もう一つのアクターとして「第三の経済」の担い手、すなわち協同組合あるいはNPOが予定されている。だが、過疎地域など、「営利経済」の採算点に乗らない地域では介護サービスへの営利企業の不算入、さらに算入したとしても撤退という事態は容易に予想されるところである。それが、営利企業の「正常な」行動様式であるからである。そうなれば、営利企業が担う介護サービスはふたたび他の経済領域へと排出されることになる。いずれにせよ、「営利経済」における「市場の失敗」、あるいは「公共経済」における「政府の失敗」といったかたちで現われてくる、<経済=生活>におけるニーズの不充足はつねに伸縮の幅をもっているのである。 このような<経済=生活>におけるニーズの不充足の存在こそ、人びとがその充足に向かう社会的な基盤である。換言すれば、そこに、「協同のイニシアチブに基づく非営利経済事業を伴った社会運動」としての非営利・協同運動が「第三の経済」あるいは「ボランタリーな経済」を創出していく基盤が形成されるということである*9。そしてここでより重要なのは、<経済=生活>のニーズを生活防衛に迫られてたんに満たすというにとどまらず、ニーズの充足過程を、「自律・協同・連帯・共生・相互扶助」等々といったいわば「人間的な価値」に基づいて編成しようと展開する可能性を、潜在的に秘めていることである。その意味で、特有の価値を含んだものとしての「社会的経済」*10が「第三の経済」としての役割を担うことになるのである。 こうした文脈からいえば、社会運動は非営利・協同運動として、<経済=生活>の一領域を構成する社会的経済をみずから創出することによって<経済=生活>を総体として成り立たせると同時に、社会的経済の創出というルートを通じて、総体としての<経済=生活>に「人間的な価値」を導入するための重要で不可欠の内在的な契機となる、と位置づけられるであろう*11。そして、社会的経済を担う中心的な経済組織として協同組合、NPO、共済組織等が位置づけられるのである*12。 <経済=生活>という全体領域の中に以上のような三つの経済が存在することを、現代の社会経済システムとして表現するのが「公共セクター」「私的営利セクター」「社会的経済(非営利・協同)セクター」の三部門間関係論として成立する「新しい混合経済」論である。この「新しい混合経済」論は、これまで「公共セクター」および「私的営利セクター」の影にかくれて、いわばシャドウ・セクターとして存在していた「社会的経済セクター」が再発見され、あるいは現代的に再生され、社会経済システムの構造的要素として正当に位置づけられることによってはじめて成立するものである*13。 5 非営利・協同運動と協同労働 先に、現代の社会運動としての非営利・協同運動は、社会的経済の創出というルートを通じて、総体としての<経済=生活>に「人間的な価値」を導入する潜在的な可能性を有するという点についてふれた。これをセクター論として言い換えれば、現代の社会経済システムにおいて社会的経済セクターが比重を増していくその程度に応じて、<経済=生活>に「人間的な価値」を導入するための「リファレンス・システム」*14としての役割を果たす潜在的な可能性もまた大きくなるといえよう。それゆえ逆に、社会的経済セクター内部の経済諸組織が掲げる「人間的な価値」がその内実においてどこまで実現されているのかが問われるわけであり、社会的責任もまた重いのである*15。したがって、社会的経済セクターとして、徹底した情報公開等を通じたアセスメント・システム(社会監査)をどのように設定しうるのか、実践的にも理論的にも今後不可欠の課題となっていくはずである。 さて、社会的経済セクターにおけるリファレンス・システムの役割・機能という点について、ここでは「労働のあり方」「働き方」*16を取り上げ、労働のリファレンス・システムとしての協同労働という概念を考えてみることにしたい。社会的経済セクターの中心的な構成要素としての協同組合、なかでもワーカーズコープ(労働者協同組合)が組織としてのその性格上、「労働のあり方」「働き方」を考えなければならないもっとも挑戦的な位置に置かれている。このワーカーズコープにおける「労働のあり方」「働き方」に注目し、その革新的な意義をあらためて確認させたのが「レイドロー報告」(日本協同組合学会編訳[1989])であったことはすでに周知のところである。繰り返しになることをいとわずその概要を摘記すれば、以下の諸点に整理される。 @「労働のあり方」──働く者が出資し、労働し、経営を管理することを原則とするワーカーズコープは、「資本が労働を雇う」という関係を逆転させて「労働が資本を雇う」という関係をつくりだす。労働者が同時に所有者にもなるワーカーズコープのあり方は、所有権・管理権を資本が掌握するようになった「第一次産業革命」に対して、「新しい産業民主主義の基本構造」を形成しながら「第二次産業革命」を先導すると予想させるものである。そして、労働者が「賃金に従属する時代」から「所有し独立する時代」へと変化する予兆である。 A「働き方」──ワーカーズコープは、人間の深い内面的ニーズ、すなわち人間性と労働のかかわりをめぐって、肉体的労働と精神的・知的労働が調和する必要性、生活や人格形成に不可欠の要素として労働を位置づける必要性を提起している。 B「困難」──ワーカーズコープはたんなる情熱だけでは運営されえない。各種協同組合の中で、もっとも困難で、複雑でスムースに運営することの難しい協同組合である。 以上、「レイドロー報告」は、スペインにおけるモンドラゴンの経験に寄せて、ワーカーズコープの歴史的な再生を「ワーカーズコープという概念の全面的な回復」と呼んだのである。上記@「労働のあり方」すなわち「労働の社会的形態」をより集約的に表現するとすれば、モンドラゴン協同組合がその組織特性を「協同労働の協同組合」と規定しているように、協同労働という概念に帰着する。そして、A「働き方」についていえば、協同労働という「労働のあり方」のもとで、働く者が「人間の深い内面的ニーズ」を満たすことができるような主体的な「働き方」が位置づく、と理解することができる。さらにB「困難」*17については、このような「労働のあり方」「働き方」を実現するためには、資金調達、管理能力、「独自の市場」の形成等々、ワーカーズコープ運動として、「情熱」を超えたところでの適合的な方法の模索をつづけなければならない、と整理されるであろう。 「レイドロー報告」におけるワーカーズコープ論の先駆性をふまえ、<リファレンス・システムとしての協同労働>を位置づけるために若干の補足をしておこう。第一に、「仕事おこし運動」*18の重要性にふれておかなければならない。換言すれば、「雇用」あるいは「雇用労働」として「与えられる労働機会」ではなく、働く者たちがみずから取り組む「労働機会の創出運動」*19である。協同労働という、雇用労働とは別のかたちで労働機会の創出を試みる経験はこれまでにも数多く見られたものである。例えば、倒産企業の労働者たちがワーカーズコープ方式で企業再建を行って労働機会を維持したり、介護サービス等の社会的ニーズを満たすためにワーカーズコープ方式で新規に仕事おこしをする、といった各種事例が存在する。こうしてみると、協同労働という、雇用労働とは別の労働の形態に基づいて仕事をおこすことも可能であるという点を、<リファレンス・システムとしての協同労働>の出発点にすえておかなければならないだろう。 第二に補足しておくべきは、「協同労働という労働の社会的形態のもとに、主体的に働くという内容が盛り込まれる」という点にかかわって、「主体的に働く」ことの内容についてである。さしあたりそれについては、@協同労働は、働く者どうしが労働の主体として相互に「労働の協同化」をすすめることでしか成り立たないがゆえに、労働と結びついた次元での主体間の協同関係が不可欠であること、A主体間の協同関係の中ではじめて労働の主体たりえるとすれば、労働の主体として、個別的な労働のみならず、個別的な労働の集積としての協同労働の「質」にもつねに目を配らなければならないこと、したがって、協同労働に基づいて提供する財やサービスの「質」をめぐっての利用者との間の協同・共感関係にまで想像力を及ぼさなければならないこと*20、という二点を指摘しておきたい。 以上を要するに、<リファレンス・システムとしての協同労働>の要諦は、第1に、仕事おこし運動の有力な形態としての協同労働、第2に、主体的な働き方を通じて社会的ニーズの充足を図る協同労働、という二つのレベルに集約されるといってよい。ここで確認しておくべきは、社会運動としての非営利・協同運動の歴史的な経験を通じて徐々に協同労働というかたちが創り出されてきた、という点である。労働のリファレンス・システムとなりうる協同労働の再発見は、<経済=生活>においてどのような「労働のあり方」や「働き方」*21がふさわしいのかをつねに問い直すための素材を提供するものであり、非営利・協同運動がはたすべき、そして、それが形成する社会的経済がはたすべき貴重な社会的機能なのである*22。 6 非営利・協同運動と「新しい労働運動」 <リファレンス・システムとしての協同労働>にかんする第1の論点は、仕事おこし運動のための選択肢としての協同労働というものであった。これは、現代社会においてその解決がもっとも緊急を要する社会問題である「失業・雇用問題」にかかわっている。雇用労働が「労働のあり方」として大きな力をもって浸透し、現下の状況は、資本主義市場原理を至上のものとする「経済成長による雇用創出」が唯一の方法であるかのような様相を呈している。環境問題という制約の中、経済成長主義で雇用問題を解決しようという発想はもはや過去のもののはずであった*23。にもかかわらず、「景気対策としての公共事業」*24がいまだまかり通るこの国である。 そうであればこそ重要なのは、「満たされざる労働」(内橋[1995]42頁)という視点に立って、福祉・介護・保健・医療・教育等々社会が必要する膨大な労働の領域を満たしていくために、そうした領域へ資源配分を意識的にすすめることである。一方での労働の「過剰」、他方での社会が必要とする労働領域における労働の「絶対的不足」、それらが同時並存するいわゆる「労働のミスマッチ」である。そして同時に、「従来型の雇用ではない労働」(45頁)に目を向けるべきなのである。「社会的に必要とされ、なくてはならぬ労働として人びとが実感して認知する領域の多くが、利潤動機から大きくはずれた、市場経済の圏外にひろがっているのだ。利潤動機に代わるもう一つの行動原理とシステムがなければ、社会的有用労働が満たされることはなく、はみだした空間は切り捨てられる」(44頁)──ここにいわれる「利潤動機に代わるもう一つの行動原理とシステム」とは「従来型の雇用ではない労働」であり、まさに協同労働に他ならない。このように見てくると、仕事おこし運動・労働機会創出運動における<リファレンス・システムとしての協同労働>が重要な選択肢として浮かび上がってくるといえる。そして、最近になってようやく、ワーカーズコープ運動もその構成部分である非営利・協同運動が創り出す社会的経済に対して、「雇用問題」の視点から積極的に関心が向けられるようになってきた*25。 しかしながら、労働機会創出の緊急性についていえば、もっとも深刻なのは労働組合運動であろう。戦後最悪の失業率が高進する中、「雇用流動化」という大波の前にさしたる有効な手立ても打てず、あたかも嵐が過ぎ去るのを待っているかのような印象を社会に与えている。同時に、20%台前半にまで落ち込んだ労働組合組織率の傾向的低下である。労働組合とは無縁の空間で働く人びとが圧倒的多数というのは、やはりいびつな運動状況だといわざるをえないだろう。あらためて、労働組合運動における政策選択として、<リファレンス・システムとしての協同労働>に依拠した労働機会創出運動が位置づけられる必要があるのではないか。このような文脈にすえてみるとき、<リファレンス・システムとしての協同労働>に依拠した労働機会創出運動は、労働組合運動にとっても喫緊の課題であり、労働組合が取り組むべき「新しい労働運動」であると考えなければならないのである。 つぎに、<リファレンス・システムとしての協同労働>にかんする第2の論点は、主体的な働き方を通じて社会的ニーズの充足を図るという点であった。現代社会はサービス労働の時代ともいいうるが、サービス、例えばケアワークのような対人サービスの労働が大量に必要とされる状況が進展すればするほど、<リファレンス・システムとしての協同労働>の必要性が高まっていかざるをえないのである。 対人サービスとはいうまでもなくフェイス・トゥ・フェイスの関係で成り立つものであり、サービスの供給とサービスの需要との間に共感・応答を核とする協同関係が築かれてはじめて「良質のサービス」が創造されるという構造的性質をもったものである。言い換えれば、労働主体としてのサービス供給者と生活主体としてのサービス需要者との間における「サービスの協同生産」である。供給者が「サービス商品」のたんなる販売者ではなく、需要者が「サービス商品」のたんなる購買者でもなく、「質のよい、ケアサービスの協同生産者」の関係にまで両者が展開することが必要なのである。そこには、「サービス商品」の卑屈な販売者と「サービス商品」の高慢な購買者という関係(「卑屈」と「高慢」の逆転関係も、条件次第では発生する可能性も否定できない)を超えうるような、両者対等の関係に基づいたサービスの供給システムが求められるであろう。 そうだとすれば、効率主義と利潤動機に規定されたところで、ケアサービスをめぐる「協同生産者の関係」に立つことはどこまで可能であろうか。ケアワークのようなサービスにおいては、サービス労働という性質上、効率主義と利潤動機を独立変数とするかぎり、商品の売買関係の枠組みが齟齬を起こす蓋然性は相当に高いのである。「効率的で質のよいサービス生産者」と「賢い消費者」という構図は、「サービスの協同生産」という契機を内在的に組み込むことをそもそも排除したところで成り立つものでしかない。なぜなら、商品としてのサービスは、協同性を組み込もうとするその瞬間から「利潤動機にとってきわめて効率の悪い商品」になり始めるからである。あらためて、ケアワークを利潤動機の手段とすることの当否が問われなければならない。 さて、「サービスの協同生産」を可能とするような、サービスの供給・需要間の対等関係に基づいたシステムを構築することが求められるとすれば、そこにこそ、主体的な働き方を通じて社会的ニーズの充足を図るという<リファレンス・システムとしての協同労働>の可能性も存在するということができるであろう。<リファレンス・システムとしての協同労働>という視点から現代社会を「サービス労働の時代」だととらえてみれば、現代社会は「協同労働の時代」だというべきかもしれない。 以上のような、「サービスの協同生産」とそのための<リファレンス・システムとしての協同労働>という認識をふまえてみるとき、サービス関連の労働組合運動に対しても、じつは大きな問題を提起することになるように思われる。労働組合運動がこれまで等しく前提にしてきた労働組合論といえば、例外を除けば、概ね「工場労働モデルの労働組合論」だったといって大過ないであろう。そこでは、「労働のあり方」「働き方」から論理を組み立てるという視点は希薄である。工場労働は人間を対象とする労働ではないがゆえに、対象との関係における労働の中身・質についてはそれを与件として、第一義的には経営者と対峙しての賃金・労働条件の改善に運動の焦点を当てることが可能であったからである。 ところが、人間を対象とするサービス関連の領域においては、みずからのサービス労働の質を高めるためには、先に見た「サービスの協同生産」への展開が必然的に問われることになる。それは、効率主義と利潤動機を放置したままでなしえるものではないことは上に述べた通りである。とすれば、みずからの「労働のあり方」「働き方」をめぐって、いかなる変更を可能なかぎり加えるのかが運動論としての課題にもなってくるであろう。そこに、人間を対象とするサービス労働として、「労働のあり方」「働き方」を問い直し、労働の質を問うところから出発する「新しい労働組合論」が必要とされるのである。それを、「サービス労働モデルの労働組合論」と呼ぶことにしよう。 そして、「サービスの協同生産」に基づいて労働の質を高めるためには、それを可能とさせるような経営のあり方をも創り出していく必要がある。したがって、必要な条件整備のうえでの経営への関与、さらには経営参加も当然視野に入れなければならない。サービス労働という分野においてはとりわけ、「労働のあり方」「働き方」から出発して経営参加までをも見通すような「サービス労働モデルの労働組合論」が構想されるべきなのである。このことは、賃金・労働条件を放置するということをまったく意味していない。むしろ逆である。「サービスの協同生産」に基づいて「サービスの質」を高め、その「サービスの質」に見合ったふさわしい賃金・労働条件のレベルとはどのようなものであるべきなのか、それを対経営者との関係だけでなく、サービスの需要者との関係においても、協議に基づいて社会的なルール化を設定するということでもあるのである。 こうした論理に基づいて、「利潤動機の手段とされるサービス労働」から「サービスの協同生産」へ向かうサービス労働のあり方へと転換させようと発想することは、「雇用労働の希釈化」へとつながっていくのである。たとえ雇用労働の形態に置かれているとしても、主体的な働き方へと近づくための「雇用労働の希釈化」は労働組合運動の重要な課題なのである。その意味で、<リファレンス・システムとしての協同労働>という視点を導入して、「サービス労働の時代」にふさわしい「新しい労働運動」あるいは「労働の質を創り替える労働運動」の構想が求められるようになるであろう。その意味で、労働組合運動と非営利・協同運動としてのワーカーズコープ運動は「新しい労働運動」を創出するための接点を意識的に求めていく必要があるのである。 小 括 以上、本稿では、<社会運動と社会的経済>という視点に立って、非営利・協同運動という現代の社会運動が社会的経済を創出していくことの意義を、「社会経済システムのあり方」、それとの関連における「労働のあり方」「働き方」、さらに「労働運動のあり方」といった一連の問題領域とのつながりの中で考察してきた。「運動論的な見地からすれば、社会的経済の運動は種々に分化した社会運動の総合性の回復をめざす運動でもある」(富沢[1999]117頁)と指摘されているとおり、社会的経済が連鎖していく社会領域はすぐれて多様に存在しうるのである。こうした非営利・協同運動が「社会全体のあり方」を問い直す社会的な機能を内在しているのだとすれば、21世紀に向けた社会像を描くためにも、非営利・協同運動の有する可能性とそこに伏在する課題を整合的に提示しうるような≪非営利・協同運動の理論≫がぜひとも要請されることになるだろう。<社会運動と社会的経済>の一体性という視角からする理論形成を、引き続いての研究課題としたいと思う。 参考文献 *池上惇[1995]『仕事おこしのすすめ』シー・アンド・シー出版 *今田忠[2000]「市場原理とフィランソロピー原理」 (林雄二郎・今田忠編『改訂・フィランソロピーの思想──NPOとボランティア──』日本経済評論社) *今村仁司[2000]『交易する人間──贈与と交換の人間学──』講談社 *I・イリイチ(玉野井芳郎・栗原彬訳)[1982]『シャドウ・ワーク』岩波書店 *内橋克人[1995]『共生の大地──新しい経済がはじまる──』岩波書店 *内山哲朗[1996]「集団的自己雇用と集団的生活自助──社会的経済の労働・生活論──」(富沢賢治・ 中川雄一郎・柳沢敏勝編『労働者協同組合の新地平──社会的経済の現代的再生──』日本経済評論社) *内山哲朗[1998]『環境循環と持続可能性──環境循環の社会科学──』A&A出版 *内山哲朗[1999a]「『よい仕事』という発想─協同労働への想像力─」(協同総合研究所『協同の発見』第85号) *内山哲朗[1999b]「『新しい労働のかたち』とワーカーズコープ運動」 (日本労協連編『21世紀への序曲──労働者協同組合の新たな挑戦──』シー・アンド・シー出版) *金子郁容・松岡正剛・下河辺淳[1998]『ボランタリー経済の誕生──自発する経済とコミュニティ──』 実業之日本社 *川口清史[1999]「非営利・協同組織の日本の文脈からの定義と概念化」(富沢賢治・川口清史編 『福祉社会と非営利・協同セクター――ヨーロッパの挑戦と日本の課題――』日本経済評論社) *岸本重陳[1998]「資本主義、市場システム、そして国家」(『神奈川大学評論』第31号) *北島健一[1999]「社会的経済と非営利セクター」(富沢・川口編、前掲) *R・M・サラモン[1994]「福祉国家の衰退と非営利団体の台頭」(『中央公論』10月号) *R・M・サラモン、H・K・アンハイアー(今田忠監訳)[1996] 『台頭する非営利セクター──12ヵ国の規模・構成・制度・資金源の現状と展望──』 *R・シュー(山本一郎訳)[1999]『「第四次経済」の時代──人間の豊かさと非営利部門──』新評論 *竹内啓[1998]「経済を学ぶ@『人々の生活』の原点確認を」(『日本経済新聞』「経済教室」3月30日) *田中弥生[1999]『「NPO」幻想と現実─それは本当に人々を幸福にしているのだろうか?─』同文館 *寺田良一[1999]「環境NPO における運動性と事業性」 (中村陽一・日本NPOセンター編『日本のNPO /2000』日本評論社) *J.ドゥフルニ、J.L.モンソン編(富沢賢治他訳)[1995] 『社会的経済──近未来の社会経済システム──』日本経済評論社 *富沢賢治[1999]『社会的経済セクターの分析――民間非営利組織の理論と実践――』岩波書店 *日本協同組合学会編訳[1989]『西暦2000年の協同組合[レイドロー報告]』日本経済評論社 *H.ヴレヴァマン(富沢賢治訳)[1978]『労働と独占資本──20世紀における労働の衰退──』岩波書店 *室田武[1987]『マイナス成長の経済学』農文協 *J・リフキン(松浦雅之訳)[1996]『大失業時代』TBSブリタニカ 脚注 1 飯尾[1997]は「ニーズにもとづく連帯と参加」という視角から、「市民のニーズにもとづいて事業活動をすすめ、自主的なコミュニティ活動とも強くつながっているのが、最近注目されている『ソーシャル・エコノミー』(social economy:社会的経済)である。それは、ひとことでいうと、『人びとの主体的参加による、利潤目的を第一原理としない、民間の協同活動的事業体』である」(223頁)、と述べている。 2 環境運動と社会的経済のかかわりについて述べたものとして、寺田[1999]がある。「非営利環境事業を行う環境NPO に優位性があるとすれば、それはそれらがいかに運動性を事業性に生かし、『社会的経済』としてのその社会的存在理由を市民にアピールし、事業をいい意味で差別化していけるか、という点にある」(179頁)。 3 社会的経済を社会全体とのかかわりで位置づける一例として以下を参照。「緊急に必要なことは、私たちの経済についてのビジョンを社会全体のなかにもう一度合致させること、つまり経済的なものと社会的なものとを合致させることである。経済を作り直し、はるかに多くの広がりや一貫性を経済に取り戻させ、経済を哲学や社会的構想力と切り離せない『社会全体のための科学』として見ていた初期の経済学者たちの大望に戻すことが必要なのだ」(R・シュー[1999]196頁)。これは、社会から「離床」した資本主義市場経済をいま一度「埋め込む」という、あのK・ポラニーの提案に通じるものである。 4 もちろん、「協同のイニシアチブに基づく非営利経済事業を伴った社会運動」、あるいは社会運動が生み出す社会的経済(l'economie sociale)も、その歴史の起源を遡れば19世紀初頭に辿りつくのであるが、「今日われわれが向き合っているのは新しい社会的経済であ」り(J・ドゥフルニ、J・L・モンソン編[1995]6頁)、「社会的経済の現代的再生」(内山[1996]250頁)である。 5 社会的経済論の研究において、経済の意味の再確認が必須であることを意識的に強調しているのは、富沢[1999]である。「[社会的経済では]経済という概念そのものが問われることになる。経済は生活に必要な財とサービスの供給を内容とする活動である。このような観点からするならば、生活に必要な教育や医療活動を行うサービス組織は経済組織であるとされてもよいはずである。ところが、伝統的な経済理論においてはこれらの組織は経済事業組織としては理解されていない。なぜか。その大きな理由の1つは、それらの組織が利潤獲得を目的としていないからだとされる。利潤獲得活動を伴うかどうかが、経済事業組織と非経済事業組織とを区別する判断基準とされることになる。だが、利潤獲得活動を経済活動の不可欠の要因とする理解は、社会の資本主義化にともなって一般化したものであって、経済の本来の意味(生活に必要な財とサービスの供給)を限定するものと言わざるをえない」(29-30頁)。これまで、社会的経済をめぐる議論では「社会的」が意味することの理論的な探求に関心が集中されてきたと思われるが、「経済」の意味を再確認することのほうが理論的優先順位としてはむしろ重要だというべきであろう。 また、社会的経済論とは別の文脈において、資本主義経済の「欠点」について、「見えざる手」が決して万能ではないことを「経済とは人々の生活のことであるという根本に立ち戻って考える必要がある」と説いて、放任された資本主義経済の危うさを簡明に指摘しているのは竹内[1998]である。 6 近年の環境問題とのかかわりでいえば、経済の概念に廃棄を含めなければならないこと、そして、経済諸活動が循環システムとして確保されねばならないことはもはや自明であるというべきであろう。したがって、自然環境と経済を循環関係においてどう位置づけ直すかが「環境経済学」における最終的課題となるのであるが、そこではまさに、環境経済学とは「廃棄の経済学」であり、廃棄を内在化した「循環の経済学」に他ならない(内山[1998])。 7 それゆえにこそ、岸本[1998]は、「市場経済」と「資本主義市場経済」との原理的区別の重要性を指摘している。「多くの人々が『市場化』と呼んでいるものは、しばしば『資本主義化』であることが少なくない。しかし、『市場化』と『資本主義化』とは、ほんとうは別物なのである。なぜなら、資本主義は必ず市場を必要としているが、市場は必ずしも資本主義を必要としないからである。今まで資本主義経済が存在しなかった場所にそれが進出するためには、その場所に市場を作り出さなければならない。だから、資本主義化は市場化を伴う。だが、市場は資本主義経済しか乗せられないものではないのである」(51-52頁)。とくに、「市場は資本主義経済しか乗せられないものではない」という指摘は、市場経済システムとの関連で社会的経済を評価しようとするとき、例えば「産消複合組織」による財やサービスの提供を、「独自の市場」としての「編集された市場」として位置づけようとするときの貴重な示唆を提供するものだと思われる。 8 私たちが十分に意識することなくしばしば使用する「経済的」あるいは「経済的価値」という用語法も、決して<経済=生活>という経済本来の文脈においてではなく、<経済=貨幣>という観念形態の文脈においての<経済的=貨幣的><経済的価値=貨幣で秤量される価値>という意味での用法に過ぎないことに、あらためて留意しておく必要があるだろう。 9 「ボランタリー経済」について、金子・松岡・下河辺[1998]を参照。 10 社会哲学・人間学という立場から「<社会的>なものとは何か」を考察して、l'economie sociale に関説している今村[2000]の指摘はたいへん興味深い。「ドイツ語のヴィルトシャフトは、本来は、『経済』を意味しない。それは、ギリシャ語のオイコス(家政、家族の生活の原理)や近代的なエコノミーではなくて、『気前のよい行為』であった。/もてなしの慣行(ホスピタリティー)という古い意味のヴィルトシャフトを19世紀において保存したフランス語がある。それがl'economie socialeである。このsocialeは『気前のよいこと』『他人を援助すること』『相互扶助』を意味する」(27頁)。 11 社会運動による価値の提示という点について、世界の協同組合運動がICA100周年大会(1995年)において『国際協同組合同盟・協同組合のアイデンティティに関する声明』を採択し、「協同組合は、自助、自己責任、民主主義、平等、公正、連帯という価値を基礎とする。協同組合の組合員は、協同組合創設者たちの伝統に基づき、正直、公開、社会的責任、他者への配慮という倫理的価値を信条とする」(富沢[1999]87頁)という「人間的な」価値の宣言を明記したことがあらためて想起されるべきである。 12 社会的経済を担う経済組織をどのように規定するかをめぐっては、いまだ共通の理解を得る段階には至っていない。しばしば指摘されるように、「社会的経済」にはフランス型の、「NPO」にはアメリカ型のバイアスがそれぞれかかったものとであり、相互の区別が必要だとの議論もある。とりわけ評価と位置づけが分かれるのは、「非営利性」の理解についてである。フランス型「社会的経済」論においては事業目的における「非営利性」が、アメリカ型NPO論においては収益の非分配制約における「非営利性」がそれぞれ強調され、理論的な整理が十分にはつけられていないわけである。社会運動論としての展開という視角からいえば、実践的にも理論的にもいっそうの交流を通じた共通の理論枠組みが必要である。 現段階におけるさしあたりの集約としては、川口[1999]による以下の整理が有用であろう。「我々はここで『非営利・協同』組織、ないしセクターという、この間用いてきた概念を用語し、維持しようと考える。ここで言う非営利・協同は諸組織を包含する社会セクターの目的からする規定である。非営利とは利潤を目的としないことであり、協同とは共通のニーズを協同して実現することを目的にすることである。非営利・協同と重ねることによってその目的をネガティブにかつポジティブに表現することになる。/理論的な意味ばかりでなく、実態としても、非営利組織と協同組合の協力、協働の関係はさまざまな地域、分野で広がっている。とりわけ、福祉や環境でそれは著しい。実態としてあるだけでなく、今後日本の市民社会としての民主主義的発展を展望するとき、このセクターが全体として大きくなること、そして内部で諸組織が相互に協力、協働しあうことは戦略的意味を持つものと考える」(42-43頁)。また、「非営利」をめぐる議論の整理の素材として、北島[1999]も参照。 13 この点について、以下を参照。「新しい社会的経済は資本主義制度にとってかわろうと望むものでもなければ、資本主義の循環運動の副産物たらんと望むものでもない。反対に、新しい社会的経済は、現代の経済システムにおける構造上の独自の構成要素として出現しつつあるものである」(J・ドゥフルニ、J・L・モンソン編[1995]6頁)。また、「新しい混合経済」は「多元的経済社会」(内橋[1995])と言い換えることもできるだろう。 14 既存システムから新しいシステムへの転換を促すためには、新しいシステムを想定することによって、既存システムと相互比較することが必要である。システム間の比較対照のために準備される新しいシステムを、ここでは「リファレンス・システム」と呼ぶ。 15 社会的経済セクターの社会的責任について、以下の指摘も参照。社会的経済という「第三の部門がになう社会的責任は、民間部門や公共部門以上に重い。それはこの部門が、なんらかの理由で疎外され、見向きもされず、あるいは企業や政府によって充分に保護されてこなかった幾百万もの人々の要求や希望をくみとり、それをかなえていくための分野だからである」(J・リフキン[1996]273-274頁)。また、NPOに関しても、田中[1999]にみられるような、NPOを責任ある社会的セクターに発展させるための仕組み等について真摯な問題提起がなされている。 16 「労働のあり方」とか「働き方」といった用語法はしばしば見られるのであるが、その意味する内容は使用者によって異なることが多い。したがって、使用法をあらかじめ限定しておきたい。本稿では、「労働のあり方」を「労働の社会的形態」という客観的な文脈で(雇用労働、協同労働など)、「働き方」を「働く者としての価値判断を含む、労働の主体の側面」にかかわる主体的な文脈で、使用する。 17 「困難」に関連して、ウェッブ夫妻による「ワーカーズコープへの死滅宣言」がよく知られているが、それは、「ワーカーズコープ=失敗の代名詞」という「宿命論」に立つ議論であった。モンドラゴンでの経験事例や近年のヨーロッパにおけるワーカーズコープに対する積極的位置づけ等を念頭に置いていえば、ワーカーズコープの認知・育成をめざす法制度の整備、支援ネットワークの形成等々社会的条件しだいでワーカーズコープが社会の中に定着するという歴史的な経験にこそ目を向けるべきであろう。ワーカーズコープの抱える「困難」の認識をめぐっては、「宿命論」から「経験論」への転換が必要だと思われる。 18 「仕事おこし運動」について、池上惇[1995]を参照。 19 ここにいう「労働機会の創出」というのは、決して「雇用創出」と同義ではないことには十分に注意を払っておく必要がある。雇用労働を前提に労働機会の創出を図るのが「雇用創出」であり、それは労働機会の創出の一部を占めるに過ぎない。それに対して、労働機会の創出が多様に行われるためには、協同労働に基づく労働機会の創出もありうるわけであり、またなければならないのである。 20 日本におけるワーカーズコープの経験にかんする分析から、労働の新しい社会的形態としての協同労働(労働のあり方)と協同労働の「質」をつくるための「よい仕事」(働き方)についての考察として、内山[1999a][1999b]を参照。 21 「働き方」という点でいえば、NPOも大きな問題提起をしている。「近代社会においては、何かよいことをしたい、公共的な仕事に参加したいという気持ちを抱いている市民に対して、そのための仕組みを用意することがきわめて重要である」(R・M・サラモン、H・K・アンハイアー[1996iv頁)といわれるように、「仕組み」=場が必要であることは指摘の通りである。問題は、「何かよいことをする仕組み」としてのNPOを考えるとき、「労働のあり方」そして「(主体的に働くことが可能となる)働き方」のデザインに、よりセンシティブな関心を向けることが必要ではないか。その際、非営利・協同運動の中で育まれた協同労働は重要な検討素材となると思われる。協同組合とNPOの分離論を超えて両者をつなぎ合わせようとするとき、そのための鍵の一つが社会的経済(非営利・協同)セクターの役割や機能に適合的な「働き方」にあること、その「働き方」を概念化しようとすれば、協同労働にその可能性を求めうること、これが重要な論点となるだろう。「協同労働の現代的構成」という問題関心から、協同組合、とりわけワーカーズコープとNPOをつなぐことに積極的であるべきだと考える。 22 「人間としての自立とその働き方」に目を向け、「近代社会では常識化した雇用労働にたいして自立した人間的労働を対置する経済論」の必要性を指摘するものとして、石見[1999](127頁)を参照。 23 環境問題と雇用問題を結びつけて考えることの必要性はすでに以前より指摘されていた。例えば、室田[1987]を参照すべきである。「ひとつだけはっきりしていることは、他人に雇われている人はすべて潜在的には『失業者』である」(37頁)ということである。「経済成長は、自活できないという意味での『潜在的失業者』を増やす方策である。/雇用問題について設定すべき真の目標は、自活的に生活できる世帯の数が増えること、そしてたとえ他人に雇われていても、日常生活の諸側面において自給の領域を拡大することである。このような方向を無視し、経済成長によって『潜在的失業者』がますます増加することを問題視せずに、ひたすらそれらすべての人々の完全雇用を主張するとき、そのような主張がどこへ行きつくのかを、いまこそ注意深く再検討しておくべきであろう」(38頁)。 24 公共事業の「不可思議さ」について、五十嵐・小川[1997]を参照。 25 今田[2000]は、ヨーロッパにおける社会的経済への積極的な評価にふれて「これからの時代の雇用対策を考える場合に、非営利組織や協同組合が重要になってくるが、日本ではそのような認識は薄い」(253頁)と指摘している。また、1999年の「緊急地域雇用特別交付金事業」実施の折、労働大臣宛てに提出された、兵庫県NPO有志による提言を紹介している。「現在わが国を始め世界的に社会構造・就業構造が大きく変化しつつあり、新しい形の公共サービスおよび対人サービスの重要性がますます高まってくるものと思われます。/現にEUにおきましては、NPO および協同組合を含む社会的経済セクターを雇用創出の場として重要な位置付けを行っております」(269頁)。 ただし、「雇用創出」の理解にかんしては、すでに本稿注19でふれたように、留保をつけなければならない。社会的経済セクターをただちに「雇用創出の場」と規定して済ませてしまうのは、協同労働あるいはワーカーズコープについての認識の広がりが十分ではないためでもある。 |