『協同の發見』2000.2.3 No.94 総目次

労協法制定のために
  無 茶 々 園
 

事業所の名称 農事組合法人 無茶々園
事業所の所在地 愛媛県東宇和郡明浜町狩浜
電  話/FAX TEL 0894-65-1417/FAX 0894-65-1638
E-mail/URLmuchacha@us.ehime-iinet.or.jp
       http//www.ehime-iinet.jp/co/muchachaen
代  表  者代表理事 宇都宮俊文
設 立 年 月 日 1889年7月
法 人 形 態 農事組合法人
組 合 員 数 50名
出  資  金50万円
事  業  高 22,700万円
 
事業所の名称 (株)地域法人 無茶々園
事業所の所在地 愛媛県東宇和郡明浜町狩浜
電  話/FAXTEL 0894-65-1417/FAX 0894-65-1638
E-mail/URLmuchacha@us.ehime-iinet.or.jp
       http//www.ehime-iinet.jp/co/muchachaen
代  表  者代表取締役 片山元治
設 立 年 月 日 1993年8月
法 人 形 態 株式会社
組 合 員 数 50名
資  本  金4,000万円
事  業  高 59,100万円
 

歴史・理念 
無茶々園の誕生と百姓の特権
 有機農業の研究会を作り、「無茶々園」と名付けて活動を開始したのは1974年のことです。当時、愛媛県は、和歌山、静岡を抜いて日本一の蜜柑生産県になっていました。それは、しかし、確実に生産者の肉体を触み、医者通いを強いる農薬肥料の使用を前提としたものです。使用された農薬により、土壌、自然環境の加速的な破壊が進み、海も山も畑も川も生物の棲息する所ではなくなって行きつつあったのです。私達は、こういった状況を目の当たりにして、近代農業のあり方に疑問を抱き、農薬や化学肥料で命の切り売りをする農業ではなくて自然の中に溶け込んだ生活、額に汗して働く喜びをもって、一生を土と親しみ、土に還る百姓の特権を回復しようと志しました。
 「無茶々園」という命名の由来――「ムチャチャ」とはスペイン語で、スペイン本国では「お嬢さん」、メキシコでは「ねえちゃん」、フィリピンでは「女中」の意味だそうですが、無農薬、無化学肥料栽培など無茶なことかも知れないが無茶苦茶に頑張ってみよう、ということで付けました。
無農薬、無化学肥料栽培を実際に開始したのは1975年のことです。この年の収穫物は、みてくれが悪く大半が加工材料にされてしまいました。むろん、こういった栽培方法で続けていける見込みも未だ立ってはいませんでした。しかし、間もなく転機がやってきます。
 
町内複合型経営の構想

 
 有機農業の成功は、できた生産物がそれなりの市価で販売され食べていただくことにより緒につくものです。期待された値段で自然食品店に納品された「無茶々園」の蜜柑は、マスコミ(『愛媛新聞』、『朝日新聞』、NHK 1978年)で報じられ全量販売される生産物となってゆきますが、この市場との出合いは大きな意味をもちました。食物と健康との関係、あるいは、理想の農業に近づくには農業から出発して食生活、健康、社会環境、教育に至るまで考える必要のあることなどなど、町づくりまで含めて農業を位置付けることを学んだからです。こうして農業に対する基本的な考え方を作り上げました。すなわち、農業経営が日本経済の変動に付いて行くには、蜜柑専業ではなく、蜜柑農業を基幹として、海と山と段畑を有機的にリサイクルさせる「町内複合経営」にまで経営を地域連帯化するほかなく、栽培方法としては、できるだけ石油に頼らない、ということです。この年は、また、私たちにとって、マシンオイル以外は無農薬で栽培できるという一応の展望が持てるようになった年として記憶されることになります。
 ところが、翌年(1979年)がいけませんでした。組合員各自の園での試作段階に移行したとたんにミドリクサカメムシが収穫直前の温州蜜柑に発生し、あえなく生産半減の憂き目にあい、また、過剰生産による販売不振も手伝って惨澹たる状態に陥ったのです。この苦節を教訓にして、翌年、組合員を神田市場、自然食品店、生協、消費者グループ、日本有機農業研究会を訪れさせ、栽培技術から販売に至るまで勉強をさせ、失敗を二度とくり返さないようにするためのこういった技術研修・市場研究を恒例化させることになります。この研修の流れで同年6月に出席した全国自然保護連盟の高知大会では刮目させられることにもなりました。多くの先人が農業を含めて自然を大切にしようと努力し続けて来ていることを知らされたからです。
 
ユートピア(百姓の理想郷) をめざして

 もう、我々は後には引けなくなりました。どのようにかと言いますと、「百姓の特権」を振りかざす水準を超えて、町内全園を無茶々園化しようという無茶々園の町づくり構想に思いが進化したからです。一農事組合の流儀が社会化に値し、適するものであることを御理解いただくためにも無茶々園規則といったものも必要になりますし、広く町民にも思いを知っていただくための広報活動も無くてはなりません。機関誌『天歩』がそうです。そんなとき、過疎化の悩みにつきまとわれているわが町、明浜にLPG基地を誘致する計画がもちあがりました(1980年)。負ける喧嘩はしないことを信条としてきた我々も今回は負けを覚悟で闘うことにしました。LPG基地ができると、我々のめざす町づくりとは反対の方向に進むのではないかと思われたからです。
 考えても見てください。過疎(このままでは、50年後には人口がゼロになるというほどの過疎)の町へ都市型の企業が進出した結果、都市並みの給与を貰い、良い車に乗ってクーラーの効いた部屋に住む新住民に、日曜日には海浜でビキニのギャルとイチャつかれたのでは、汗と草にまみれて密柑山で働く気がせんようになると思ったからです。我々の目指す町とはなりはせんと思ったからです。結果的には、基地は誘致されず、ユートピア構想が計画倒れに終わりかねない危機は回避されました。
 
ユートピア建設の歩み  
◆消費者との全国連帯をめざして
 ところで、先程述べましたように、先達から学んだことは多いのですが、いま一つ挙げておきます。「食物は、作る者と食べる者とがお互いに顔が見え、理解しあって生きていかなければならない」(日本有機農業研究会・一楽照雄氏より)、ということです。我々が行っている全国行脚は、こういった関係の保てる消費者を求めての行動なのです。
 横道に逸れましたが、ユートピア構想に戻りましょう。我々は、蜜柑価格の低迷が続き、農家まで気力を亡くしてしまうのではないのかと危惧されていた1984年に、地域に有機栽培を普及拡大する試みに着手しました。組合員数も32名に増え、無茶々園化栽培面積も8haに増え、生産量も前年の2倍(200トン)になりました。この年より、「無茶々園と消費者との提携に関する申し合わせ書」の取り交わしを始めています。ここにも、一楽さんから学んだことが根付いているのです。
 
◆生産者との地域連帯をめざして
 農協が我々を認知したのは1987年です。農協が有機農業部会として無茶々園を認めることを理事会でやっと決定したわけです。有機農業を目指す農家は殆どが農協に失望して農協をやめていくのですが、百姓のシンボル組織は農協なわけで、現状がどうしようもないのだけれども付き合っています。
 1988年には、組合員数は55名、面積34ha、生産量700トンとなり、1990年には組合員数も面積も町内全体の1割水準を超え、若い農業者に浸透していきました。1993年は画期的な年でした。本浦地区で50haの蜜柑園にスプリンクラー統一施設が出来上がり、地区全体で無茶々園に取り組むか、農薬の散布を相変わらず続けるのか、という選択が地域に突き付けられたからです。
 それで、現在、2000年のいまどうなっているか。本浦地区で半分の25haは、無茶々園の蜜柑園となっています。無茶々園全体は、85haにまで拡大しました。しかし、同地区の半分は未だ農薬散布に異義を唱える経営ではないので、うかつにも農薬がかかるという事態が2年前に起きてしまいました。我々は、自らの蜜柑園に農薬がかからないようにするために、インターネットの画面で御覧いただけるように、あの手この手と策を尽くしました。
 当時、理事長の宇都宮がホームペイジに掲載した一文をここで紹介しておきましょう。「自分の畑には農薬を撒きたくはありません。その結果、スプリンクラーに袋をかけ……この袋がけした園のみかんは直接みかんに農薬がかかってはいないのですが、一部隣接する樹はどうしてもかかる部分があるため、しばらくの間、低農薬栽培として取り扱わせていただきます。消費者の皆様には、この措置についてご意見もおありかとは思いますが、無茶々園は町づくりの運動体です。集落全体の質の向上のため、私たちの地域の有機農業を維持、広げるためにもご理解をお願いする次第です」と。
 
平成の文明開化と協同労働、 そして労働者協同組合法 
 新農基法(食料・農業・農村基本法)の下で、食料の安定供給確保を目的として、地域農業の多様な担い手を確保・育成するとして、農業生産法人制度の要件の見直しと、株式会社など営利法人による農地の取得に道が開かれました。新しい「農業振興地域の整備に関する法律」は、優良農地の確保と農業振興地域の計画的な整備を推進することを謳っています。我々は、企業が資金にものを言わせて肥沃で価値の高い農地のつまみ食いを開始したり、資本型の大規模農業への転換を加速することで、農地価格が高騰し、劣弱な経営環境の下に置かれている農家の離農がますます深刻化することを懸念しています。
 農村に定住する人が激減し、通勤農業も始まることでしょう。農村への企業の参入によって今まで担保物件にできなかった農地が流動性の高い資産として銀行に注目されるようになる結果、何が起きるか。地方に大手のスーパーが進出した後に街の商店街がどうなったか、採算ベースに乗らなかったスーパーが撤退した後には何が残されたか? 今まさに、平成の文明開化ともいうべき大変な変化が農村、地方に起きようとしているのではないでしょうか?
 農業生産の大規模化は、資本家的経営によるか協同組合経営によるか、そのいずれかであり、双方が混在し、提携するという形もありうるでしよう。しかし、農業企業は、農業感覚のある経営者、高度の栽培経験を有する農業者の存在や、機動力のある機工部隊や機械化といったものだけではなく、機械化できない部分の労働の確保なしには成立しません。
 こういった活動を支えるのは労働です。かつての農家経営は家族の共同労働によって成立していました。そこでは、労働は、人性教育、社会教育の場であり、苦楽を共にし、奉仕の場でもありました。金銭には換えられない多様な価値のある労働、それが共同労働の本来の姿でした。だから、地域社会で生活する、仕事をするということは、共同労働を離れてはありえませんでした。我々は、この共同労働を、家族経営を協同組合的集団経営に発展させる中で進化させたいと願っています。
 そのために、農業を企業経営体、共同経営として担っていける農家の育成支援にとどまらず、異業種間の提携や住民参加を基礎にして、今までの常識を覆す新しい農村社会の再生プランが不可欠です。その中心に置かれるべきコンセプトは、非営利・協同の地域社会共同体というものだろうと考えています。
 この地域共同体は、資本も経営も労働する者たちが責任を負う職域連帯組織、つまり、新しい協同組合の助けをかりなければ築けません。協同労働の協同組合法こそ、生まれ育った故郷の大地にしっかり根ざして未来に向かって営々と生きていきたいと願う農民に力強い支援を与えるものであり、地域を再生していく鍵となるのではないでしょうか。
 地域協同組合「無茶々園」の究極の願いは、兎追い小ぶな釣りし故郷の再生です。
(片山 元治)

2.3月号目次協同総合研究所(http://jicr.org)