『協同の發見』2000.5 No.96 総目次
海外事情&海外報告1

イタリア社会的経済の旅(8)

「自分の足で立つ」事業の開拓が生んだ、学校現場との協働
---ハンディクレア協同組合のバリアフリーガイドづくりを通して---

Collaboration with the local professional high school promoted byself
-sustaing enterprise of the social cooperative "Handicrea"


田中夏子(長野県/長野大学)

グラツィエラ「ガラスの骨と鋼鉄の精神」

 16世紀半ば、トレント宗教会議の舞台となった壮大なボン・コンシリオ城の裏手通りを入ったところに、社会的協同組合Handicrea(ハンディクレア)の小さな事務所がある。入り口はこじんまりとしているが奥にぐっと伸びた作りで、室内には所狭しとコンピュータが並ぶ。代表を努めるアネージ・グラツィエラ(Graziella ANESI)はパソコン操作の手を留め、奥の方から満面の笑みで迎えてくれた*1。重度の骨形成不全症という難病を抱える彼女は、話がしやすいよう、酸素吸入器から伸びる管と車椅子の位置を調整しながらさっそく、実は一昨年、お兄さんが長野オリンピックのイタリアチームに随行したのだと話しを切り出した。施設の後利用やオリンピック選手村の行方を問う彼女の話を聞いていると、まるで長野にいるようで、グラツィエラの想像の翼の広さに圧倒される。むろんこの話題が、難病の彼女を前に緊張している私をリラックスさせるための彼女の心遣いであることは明らかだが、同時に、これまでの人生を一貫して車椅子上で生きてきた彼女の、「壁を突き崩して移動すること」への強い希求の反映であることも、話すにつれ痛感した。
 少し雰囲気がほぐれたところで彼女は一気に本題に入った。
 「ここに来た人は、私を見て、たいてい『代表の方はどこですか?』って聞いてきます。『私がこの協同組合の代表ですよ』と名乗ると皆、とまどうようです」。

 トレントは社会的協同組合の「先進地」であるが、障害を持つ人々を正規の就労組合員として3割以上含むことを義務づけられているB型の社会的協同組合は少数派*2。ましてや障害の当時者が先頭切って協同組合を切り盛りするケースは少ない。こうした現状の中で、グラツィエラたちは独自の立場でHandicrea(ハンディクレア)を展開してきた。
 難病を生きながら、障害を持つ人々を困難にさらす「社会の障害」に、ねばり強く働きかけてきたグラツィエラの歩みについて、昨年末地元新聞が「ガラスの骨、鋼鉄の精神」と題した特集記事を組んでいる*3。ここでは、記者と対話する彼女の言葉を追いながら、協同組合づくりの背景となった病と、その病に対する社会のまなざしについて記しておきたい。
 「体重30kg、身長95cm。これが今の私の身体です。生まれた時点ですでに何カ所も骨折がありました。生後2日で重い骨形成不全であることが判明、医者は母に私が三歳まで生き延びることは難しいと言ったそうです」。「ほんのちょっとした咳やくしゃみでも骨折の原因となりました。3歳までに32回の骨折。14〜5歳に至るまで毎年平均10回の骨折を繰り返し、それ以降は成長期を過ぎたこともあって骨折回数は少なくなりました。ただしこうした種類の難病で、私の年まで生き延びた例が希なことから、次の段階で何がおこるか、全くわからないのです」。
 「自分が難病であることをはっきり自覚したのは13〜14歳の時でした。むろん小さい時から他の子供たちと自分が違うことはわかっていましたが。小学校、中学校には行かず、家庭教師や以前教員をしていた母の力添えで勉強しました」「家族は常に私を愛してくれました。兄は私の人生にとっていつもかけがえのない存在です。外出はできなかったけれどいつも兄が友達を連れてきてくれました」。「むろん苦悩もあります。母が私の病に絶望的になっている時など…。でも私は、冷静にそして強くあろうとしてきました。私は日常性を尊いと思います。つまり「今日」が存在することを噛みしめ、それを享受するということです」。(中略)「今は、安定しています。可能性と自立的であることを感じているからでしょう。1987年にこのモーター付きの車椅子を得てから、一人で動ける喜びを得ました。1994年から私専用の仕様で作ったアパートに引っ越し、近所とはいえ家族から独立した暮らしです。また最近では、バリアフリーを扱う国際見本市にデュッセルドルフまで出かけてきました。デュッセルドルフではバス、電車、地下鉄、タクシー、いずれの交通機関もすべて障害を持つ人々に対応できる体勢です。障害を抱える私たちが一人で行動できる町です」
(以上"L'Adige"1999年11月14日付より)


社会が持つ「障害」との闘い

 Handicreaは、こうしたグラツィエラの歩みの必然的な結果として、1995年に12人の仲間で結成されたA型の社会的協同組合である。このうち収入を得ているのはグラツィエラを含め障害を持つ2名。残りの10名は、障害をめぐって、以前から社会活動を共にしてきた教員、別の協同組合の経験者などから構成される。まずは彼らの事業目的を、パンフレットから追っておこう。
 「Handicreaは様々な団体、個人、自治体とともに、障害を持った人々が常に主体となるような形で、事業を行っていきます。 
 Handicreaの原点は、以下の三点です。
 第一に「障害」という言葉は、一時的であれ恒常的であれ、通常の活動を営む際の、身体、精神、知覚困難をさす。第二に、社会はこれまで一環して弱者を隔離してきており、差別は依然蔓延し深刻である。第三に、疎外は、障害を持つ人々をわずかなサービスの中に押し込める、という形をとる。差別の手段は、意図的なものから、移動やコミュニケーションを阻む客観的な壁に至るまで様々な形を取る。(それを体現する場は)、職場、家、公共スペース、交通、通信、レクリエーション、病院、公共サービスへのアクセスと、社会的関係の中に大きく広がっている」(同協同組合パンフレットより)。
 パンフレットを目で追っていると、グラツィエラが口頭でより明確に補足する。「障害者の社会参加を促す法律がいくつか生まれましたが、本来、法律を必要としているのは障害者でなく社会の方なのです。つまり、法の対象は、どんな人間でも生活できる仕組みになっていない社会の側の障害なのです」。
 こうした現状認識のもと、Handicreaの事業内容は以下のような構成になっている。
1.障害の問題に関するインフォメーションの収集、整理と加工、
2.障害を持つ人々の困難を分析、解決するための調査研究とそのその実践、またそのためのマニュアルづくり、
3.困難を取り除くための具体的な行動、
4.介護・介助機器の貸し出し、バリアフリー設計・改造、
5.障害を持つ人々の経済的自立に寄与するような、自治体、個人からの事業受託。

 簡潔なパンフレットだが、ここから、社会的協同組合のあり方を問う痛烈なメッセージが読みとれる。すなわち、自治体からの業務受託を前提とし、しかも障害を持つ人々を「担い手」というよりは「利用者」「クライアント」として扱う協同組合が多いことへの、警鐘とも受け取れるのだ。この点についてやや説明を加えておきたい。
 トレント県の社会的協同組合は、およその数100にのぼるが、ほとんどはカトリック系社会運動を源とするConfcoop系の協同組合である*4。トレントの場合、社会的協同組合については1980年代の前半、すなわち国の法律で定められるより10年早く、州法のレベルで促進策が取られてきており、一般的には「社会的協同組合先進地」としての評価が高い。つまり、早期から、自治体との密接な協力関係のもと、端的にいえば、公的福祉サービスの担い手として自治体から事業を受託する、という形で発展してきた。ところがその「先進性」ゆえに、大きなジレンマも抱えることになる。
 どういうジレンマか。社会的協同組合は、多くの場合、公的サービスによって保障されない様々な「生きにくさ」を対象に生まれたものである。しかし社会的協同組合の活動が社会的に認知され、またそれを公的にカバーする必要性が社会に共有された結果、自治体財政によるサービスとして「制度化」されるに至る。これは一つの成果ではあるが、その「制度化」によって、当初協同組合が発揮していたオリジナルな考え方、情熱的な動機、当事者本位の柔軟性が損なわれる危険性も出てくる。
 トレントの協同組合を歩きながら感じたのは、「制度化」と「脱制度化」の分岐を自覚した協同組合が、制度化に恵まれた風土の中で、再びどうやって「脱制度化」に踏み出していくかを模索している点であった。その意味からすれば、トレントの協同組合がおしなべて「制度化」されているという括り方には異論もあろう。しかし「傾向」としては、自治体との安定的な契約関係を前提とする協同組合が多数であることは否めない。
 Handicreaは、こうした現状に対し、自治体からの事業を請負うという形を優先させず、サービスを必要とする当事者たちが自らの手で事業を生み出す必要性を訴えている点が特徴的である。


あくまで、自らの足で立つ事業開拓を

 現在のところ、収入につながる事業は「壁のないトレント」(発注者 トレント市)、「バリアフリーの大学」(発注者 トレント大学6学部)などのパンフレットづくり、介助機器の貸し出し、またスポットだが自治体関係のデータ入力の仕事などで、年間事業高は6千万リラ(約420万円)。補助金収入は一切無く、「自分たちの仕事だけで」生き延びているという。
 また、その他にも無料で障害関係の情報提供、相談活動を行っている。相談活動は、障害を持つ当事者や家族のみならず、それを受け入れる側(企業など)からも寄せられる。特に障害者雇用促進法が進展を見て(第68号法、1999年「障害者の労働の権利に関する規則」)、今年から50人未満の企業については最低2名、50人以上の企業では7%と法定雇用率も上昇した。これを実効力あるものとするため、企業側にその環境整備や組織づくりを促す政策も活発化している*5。こうした流れから見ても、相談事業の需要は増加の見込みだ。これを自治体からの委託事業とするかどうか、現在慎重に検討中という。

 しかし必ずしも自治体とのパートナーシップを全面的に否定するわけではなく、どういう関係が望ましいかを探って、少しずつ実験も始めた。次に挙げる、市内のバリアフリーガイドづくりがその一例である。自治体との関係について問うと以下のような答えが返ってきた。
 「最初は難航しました。町のバリアフリーガイドは、私たちが自治体と協力をした初めての仕事です。私たちの立場はこうです。まず私たちに仕事をさせてほしい。社会的協同組合というと、公による補助の対象と捉えられがちで、特にトレントには以前から愛他主義の文化が根付いています。これは素晴らしいことですが、しかしそれだけでは、尊厳の獲得にとって不十分なのです。援助の文化でなく、オートノミー(自主独立)の文化、そしてその知恵を分かつための具体的手段が必要なのです」。

 グラツィエラは暗に州法35号に盛り込まれた救済主義的な精神(assistenzialismo)を批判しつつ、自治体との関係づくりも、従来の、自治体サービス外部化という形で自動的に受託するのでなく、一つひとつの事業の意義を見極めた上で、受ける側の尊厳を損なわない関係が必要であることを再三強調する。これは企業との関係においても同様だ。社会的協同組合では、地元企業から箱詰めや家電の部品組を受注するケースがよく見られるが、私自身はこの画一的な作業光景に、正直とまどった。むろん、下請け仕事をしながら、協同組合独自の仕事を開拓する例にも出会ったが、二本立ての場合はどうしても受注仕事が主となり、納期が迫ればオリジナルな仕事の方は休業状態となってしまう。おそらく、純粋な「仕事起こし」でなく、ある程度制度化された「就労教育サービス」という枠組みでは、やむを得ない構造なのかもしれないが、どうしてもその点が心にひかかったままだった。グラツィエラの次の一言はに出会って、そのひっかかりが少し解けたような思いがした。

 「協同組合の中には、プロジェクトや創造的な考えで開拓精神を発揮するというより、経済的保障を重視する傾向が出てきます。協同組合はともすれば、(社会の悩みへの)答えを失い、オファーのあった仕事を引き受けるようになっていきます。私たちの協同組合にも、箱造りなどの下請け仕事のオファーがありました。けれども私たちは、たとえ経済的自立に時間を要したとしても最初に構想したことをやろうと決めたのです」。


バリアフリーガイドづくりがもたらしたもの

 さて、上記のような考え方に基づいてHandi-creaが手がけたガイドには、トレントの町中にある公共施設、観光名所、店、バール、レクリエーション施設、オフィスなど1,200箇所の「バリア」情報が15項目にわたって一目で明らかとなるように記されている*6。
 このガイドブックが、障害を持つ人にも持たぬ人々にも、貴重な情報であることは言うまでもない。子供、高齢者、妊婦など、「普通」の市民にとっても、町のバリアを徹底的に解明したこのガイドの効能は大きい。しかし、ガイドの「本領」は、情報の豊富さよりも、むしろそれを作る過程にあったという。地域にとって、学校にとって、このガイドづくりがもたらしたものは何か。グラツィエラの言葉を追ってみよう。

 「ガイドづくりには、地元の建築専門高校の生徒たち(16歳〜18歳)が一年間かけて取り組みました。1200箇所の情報を月二回ずつここに集まって整理し入力をするのです。一度入れた情報も、少し経って修正の必要が出てきたりするので、大変な作業でした。修正が必要になったのは、一度調査を終えたお店やバールが、その後、『あなたたちの調査をきっかけに、自分のところもバリアフリーにしたので、調査票を差し替えてほしい』という要求を出してきたからです。調査をする過程で、バリアフリーが広がっていったことも思わぬ効果でした。
 高校生たちは、この経験が縁で、ガイドづくりを終えた今も、時々事務所に顔を出してくれます」。

 障害を持つ当事者、将来町づくりに関わるであろう建築専門高校の生徒たち、そして地元の人々と…。それぞれがガイドづくりを通じて貴重な成果を得た様子が、簡潔な言葉で語られた。とりわけ、高校生たちにとっては「専門性」と「社会性」の両者を陶冶することとなったという。学校側の協力者である、A. Pozzo建築専門高等学校副校長のラゼラ(Rasera)氏は、ガイドブックの巻頭に次のように記している。

 「この経験は、学生たちの職業的能力を発展させる上で有益でした。座学で得たことを、実践的に確認できるという意味ではもちろんのこと、それにもまして重要だったのは、「技術者」として行動しながら、「市民」としての視点の獲得にもつながったからです。ガイドづくりの過程で、彼らは「暮らしやすい町」というのはどういうものかを検討し、障害を持った人々自身から発せられた答えについて考えをめぐらすことができました。
 職業的能力と人間的な発達を促したというのは、教員にとっても同様です。地域の願っていること、期待していることに答えながら歩むことの重要性を確認する機会となりました」。(「壁のない町、トレント」より)

おわりに 

 Handicrea協同組合は、障害を抱える当事者の、極めて明白な、「自由に移動すること」への要求から発している。それを実現するプロセスも、当事者たちを中心とした構成だ。社会的協同組合の多くは、困難を抱える当事者やその家族、仲間の試行錯誤から始まった。それが、カトリック系の社会運動の風土の中で、早期から社会的認知を得、全国に先駆けて制度化の道を歩んだことは先述のとおりである。その結果、事業受委託という形での、自治体との結びつきが当然視され、協同組合側の努力も受委託関係の維持に集中するようになる*7。そうしたあり方に内部から疑問を呈する動きも少数存在するが、「社会的必要性の発見」→「独力での事業化」→「社会への働きかけ」→「社会的認知」→「公的事業として安定化(制度化)」といったプロセスを、見直し、再構築していくことは、いかなる組織であれ困難極まる作業である。Handicreaは、これら従来「成長」の指標と考えられてきた局面を、当然視せず、一つひとつ吟味をしながら、独自の視点で進路を決定していく。
 自分たちの「生」にとって何が一番必要なものか、そこに徹底して関わっていくことが、一見非常に限定的な企てであるように見えながら、逆に、様々な主体の実質的な参加を可能としていく。ガイドづくりはその象徴ではないだろうか。しかし、その精神が社会の共有物になるにはまだまだ課題が多いのも事実だ。
出発を目前に控え、挨拶を兼ねてHandicreaの事務所に三度目の訪問。心なしか、グラツィエラの声が曇っている。しばらくすると「疲れたわ」という一言。不安そうな私の表情を見てとって彼女が言葉を足した。「疲れた…。だって、どんなに精力をつぎこんでも、世の中の変わり方があまりに遅いから…」。バリアフリーガイド作りの成果は、先述の様に若い世代や地域の人々に対して様々な波及効果を持った。しかしグラツィエラは決して楽観できないという。例えば、近々「障害と協同組合」という催しが、州の協同組合関連の評議員の呼びかけで行われることになっていて、グラツィエラのもとにも招待状が来たが、肝心の開催会場は、車椅子のアクセスが不可能な部屋が指定されていたという。あるいは、先日兄と絵画展に行ったところ、トレントで最も伝統ある美術館なのに、バリアフリーの工夫がなされておらず、そのまま引き返してきた等々。つきることなく、こうした体験が語られる。「その度に相手を諭し、時には闘って、傷ついて……いったいいつになったらこういう消耗をしなくて済むようになるのかしらね」。「鋼鉄の精神」の持ち主は、そういってため息をついた。

『協同の発見』96号(2000年5月)目次協同総合研究所(http://JICR.ORG)