『協同の發見』2002.3No.117
『協同の發見』目次
研究会:英国の高齢者事情
高齢者のイメージ
―変化する社会参加のパターン―

ダイアンヌ・ウイルコックス教授
 (リーズ大学セント・ジョン・カレッジ学長)
訳 中川雄一郎(明治大学/協同総研理事長)

要約

 イギリスにおいては、他の国々において同じように、最近ますます高齢者が何かにつけて目立つようになっている。それについては、研究者も市民もともに、「寿命が延びている」のはグッド・ニュースだと祝う気分になっているのに、他方では、このような人口統計的変化が比較的広い範囲のコミュニティに負わすことになるかもしれない財政負担に懸念を示すのである。そのような状況を横目に観ながら、本ペーパーでは、高齢者が、それまでとは違った視点で、さらには新しい一連の社会的な関係の下で、齢を重ねながらどのように新しい経験を巧みに身に付け始めているのか、その方法に着目して、高齢者の社会参加のあり様を論じることにする。
 高齢者をイメージする場合の重要なポイントは、高齢者が市民として「再度の社会参加」を行なうそのプロセスである―換言すれば、達成することができ、また歳相応でもあるような特定の種類の(職業的な)仕事あるいは活動である。このプロセスをしっかり捉えさえすれば、さまざまな高齢者のイメージを通じて、高齢者についてのさまざまな根拠のない作り話や、到底信じられるものでないにもかかわらず、あたかも「真実」であるかのように思われてきたものに対して、われわれは異議を唱えることができるのである。そのような作り話や「真実」がまかり通るのにはそれなりの理由があるが、何より問題なのは、社会的な媒体が潜在的にもっている意識である―すなわち、「 専門家」たるわれわれは、高齢者を、継続性を促すかのように、また個人の尊厳と誠実を確かなものとするかのように、さらには1人の年老いた人間として生活していることから連想されるさまざまな弱さに巧く対処するかのように、要するに、社会的福利(well-being)と感情的安寧を極力維持できるようにその役を演じる社会的な俳優であるかのように見なそうとするのである。
 このペーパーをお聴きになった皆さんが思い起こすことがあるとすれば、それは、確かなことであり、現実的なことである「齢を重ねること」についての漠然とした思いと背景の双方を明らかにする義務をわれわれは負っている、ということである。かくしてわれわれは、世代を超えて、そして将来の自分自身のために、市民としての権利と義務を十分に果たすことになるのである。
 われわれがもつ「高齢者のイメージ」の出所はそれこそさまざまである。われわれは、個々の高齢者を、あるいは高齢者のグループを、個人的能力や職業専門的能力にそれぞれ差異があるにもかかわらず、同じ一体のように考えてしまう。特に、このような高齢者のイメージは専門家の話や日常の経験とが結びついて作られてしまうので、本ペーパーで私は、高齢者の真の個性や主体性といったものを再現する手段として―すなわち、高齢の枠を超えた(高齢者の)性格と能力を明らかにする手段として、また高齢者の声をわれわれに届ける手段として―われわれに役立つ多様な高齢者像が再生されなければならないことを主張したいと思う。私が示唆することは、したがって、われわれはさまざまな高齢者のイメージを引き出すことができるのであって、それらのさまざまなイメージを通じて、高齢者が他の人たちとどのように関係をもつのか―実のところは、他の人たちと再び社会的な関係をもつ、ということであるが―そのストーリィが語られるということ、また高齢者が再び社会参加するようになるそのプロセスは、巧みに老いていく「戦略」として役立つ、ということである。
 さらに私は、(高齢者の)再度の社会的参加というこのコンセプトと実践は、達成することができ、歳相応でもあるような老後の生活での仕事や活動の1つの有力な手本となるだけでなく、彼らの仕事や活動の非常に特有な解釈をも示してくれるのだということを論じたい。だが、このことは、「仕事」や「活動」が、われわれを真に人間らしくしてくれるものに不可欠な特性とみなされる限りにおいて、重要なのである。異論のあることかもしれないが、門外漢の人たちや専門的な人たちと共に「活動」というものを再概念化し、腹を立てることもあれば驚かすこともある「老い」の側面を示すことは老人学研究者の仕事であるし、また慎重に刺激的であること、質問と返答を誘発することも老人学者の仕事なのである。われわれ老人学者は、それ故、多くの人たちが高齢者に関わる話題について語るように仕向けなければならいのである―この話題については誰もがきっと意見をもち、ストーリィを語ろうとするであろうが、しかし、この話題には相変わらず作り話と偏見が付きまとっているのである。
 そこで本ペーパーでは、老人学―あるいは「老後の生活」に関わる研究―は、われわれが自己を明確に認識している「専門家」の通常かつ日常的な要求を取り上げ、また新たな種類の「専門家」、すなわち、高齢者について語ってはじめて意味をなすのだということが論じられることになろう。われわれは、このような老人のイメージや声を通じてはじめて、高齢者のイメージの「出所」や(イメージを作り出している)「権威」を本気で求めることができるのである。この権威は、われわれが「主体」としての高齢者にこの物語に対する責任をとらせ、客観化させないように丸め込むときにはじめて完成するであろう。
 換言すれば、本ペーパーは、高齢者自身が現代の高齢化のストーリィを語るのに最良の位置にいることを示そうとするものである―それ故、重要であるべきは、高齢者のイメージであり、高齢者の声であり、高齢者の生きた経験なのである。このストーリィは、何よりも、現代西ヨーロッパの観点から語られているけれども、それでもそのアプローチは、他の文化あるいは歴史の他のモメントにも適用され得るアプローチである。


(T)

 先ずは、普通の、そして自身満々の高齢者の他愛のない写真を見ることから始めよう―これは、イギリスにおいても、他の国々と同じように、高齢者はますます目に見える存在になっていることを連想させるイメージである。このモンタージュ写真は一連の多様なイメージを示している。だが、すべての人たちに共通な特徴として役立つものは、「仕事」それ自体についての考えである。
 上の写真は、レジャーとしてアーチェリィを楽しんでいる写真、カップルで仲良くくつろいでいる写真、遊園地で子供時代の楽しみを再発見した写真、コンピュータの接続に技術的に精通している写真、グループ祝賀会の写真、それにひさし付き帽子をかぶっている人によって連想される役割(あるいはそれとなく分かる責任)をもった写真である。当然のこととして、このことから類推できる結果は、これらの「主体」の各人あるいはすべての高齢者は別の人たちと社会的な関係をもっている、ということである。どんなに少なく見ても、彼らや彼女たちは写真家と目的意識的に関係しているのだ!したがって、彼ら高齢者は、ただ単に「主体」になるのではなく―それよりももっと重要なことであるが―社会的行為者として行動するのである。
 このように多様な行為者は、さまざまな範囲や領域にわたる技倆、知識それに資力の観点からすると、さらに細かく分類される。すなわち、状況に見合った空間と場所を利用する能力、換言すれば、彼ら高齢者は、運動場でも遊園地でもくつろぐし、昼間楽しむレジャーと夜楽しむレジャーを使い分けて、時間を生産的に利用する能力を実証して見せてくれる。また彼ら高齢者は、自分の周辺にいるさまざまな人たちと触れ合い、キーボードを使いこなす新しい技術を身に付けながら、(弓矢による)肉体的な能力から連想されるような技術を見せびらかすこともある。その上、彼ら高齢者には楽しみを見つけだす能力があることはわれわれの納得するところである。高齢者がそういうものであるなら、高齢者の生涯のこの特定の時期にあって、このようなすべての活動が彼らに妥当かつ適切であるような知識は居心地のよいものなのである。
 ところで、これらのことはわれわれをびっくりさせるようなイメージではない。むしろ、それらの中身を取りだしてみたときに―「技倆の知識や能力」の話が比較的若い人たち向けの職業訓練の成果と一層典型的に結びつけられていることをわれわれが考慮するならば―それらは、実にわれわれにショックを与え、われわれを驚かすのである。われわれがこの言葉(すなわち、「技倆の知識と能力」)を用いるのは、われわれが、例えば、ソーシャル・ワーカー、教師それに行政官のキャリアの一員となることについて誰かに話すときである。であるならば、社会参加を実践している比較的高齢の成人が彼女自身や彼自身にまさにそのようなキャリア―その後の高齢者としてのキャリア―を積むように覚悟を迫ることは、あり得ないことなのだろうか。
 そこで、一般的な話から特殊な話に移してみると、各々異なる4人の高齢者が各々固有の高齢者キャリアとして大いに身を立てているその方法をもう少し詳しく考察してみると何かしら教訓を汲み取れるかもしれない。

ネルソン前南ア大統領
1918年生まれ
 まず、ネルソン・マンデラについて見てみよう。ここでわれわれは、権力を握った人たち、肌の色の違いを恐れた人たちによってやがて拒絶されるべく生まれた1人の人物を考察する。ネルソン・マンデラは、その才能が彼自身のコミュニティの内部で早くから人を引きつけるほどの人物であった。だが、彼は、その成人時代の大多数の日々を政治犯として生きなければならなかった。彼は、今では、われわれが敬服し、尊敬する人物である。ネルソン・マンデラを特別に興味ある人間にしているものは、彼が世界のリーダーの責任を慈悲深くかつ説得力をもって引き受けているそのマナーである。驚いたことに、彼は1990年に72歳で仕事の世界(政治)に戻ったのである。



(クイーンズ・マザー)エリザベス
1900年生まれ
 われわれが考察する次のキャリア高齢者はエリザベス・ウィンザーである。彼女は王位の威光とはほとんど離れたところで生まれた。彼女はある王の息子と結婚し、ある王の妻となった。実際に、エリザベスのアイデンティティは王室の配偶者や母のそれを変えることになった。彼女は「グランド・メイトロン」(既婚夫人)という終生の役割―その役割によって彼女は驚くことに社会階級を超えてイギリス国民から愛情と尊敬の念を得たのである―を打ち立てた女性である。彼女が人を引きつける「支え役」という温情は、伝えられているような巧く機能していない彼女の家族のために悲哀を感じる[あるいは彼女には招からざる]運命の悪戯を拒んでいるかのようである。かくして、ヨーク市の人たちは、この大いなる婦人の生涯を―彼女の100歳の誕生記念に―ヨーク・ミンスターにいくつものベル(bells)を付けて褒め称えたのである。
 次に別の種類のベル(belle、美人)に目を転じよう。


ティナ・ターナー
1939年生まれ
 ここで幾分若い、年金を受給している関係者に登場していただく。疑いなく、ある時は灼熱の如く、またある時は静かに燃えるが如くに表現されている、この有名なティナ・ターナーの肖像を誰もが知っていることだろう。しかし、彼女のイメージは常に快活であり、陽気である、というものである。歳を感じさせない彼女の「あだ名」は、「質素が一番」(simply the best)である。年代順での高齢ということでは新顔であるティナは、彼女の永遠のアピールを薄めるどんなステレオタイプにも屈しはしない。




ジャック
1917年
 さて、最後のキャリア高齢者に目を向けると…。ジャックは、男やもめであり、肉体的に弱くなっている一人暮らしの年金受給者で、ヘレフォードシャーの農村に自立して生活し、それでも何とか日々の生活を巧くやっているだけでなく、日々の生活をエンジョイしようと努力してもいる。ジャックは私の父である。
 この最後のキャリア高齢者について興味のあるところは、われわれが良く知っている高齢者の典型である、ということである―すなわち、われわれが親類関係や友人関係を通じて愛情や好意の絆で結ばれている高齢者であり、老いることのプラス面とマイナス面をわれわれにこの上なく洞察をさせてくれる高齢者である。しかし同時に、世間一般に広く行きわたっている「老いること」の一般化や否定的な表現を嫌う高齢者でもある。
 ジャックは、自分の所有する介護設備のある平屋住宅(sheltered bungalow)で基礎老齢年金によって生活している。彼は、自分が必要とするものについては、最近彼が得るようになった「介護手当」(Attendance Allowance、常時介護を必要とする人に対する国民保険の特別手当)を使って手に入れている。彼は、隣近所の人たち―子供の頃からの私の友達―に、クリーニングとガーデニングを含めた有料の「チェックインズ」を毎日お願いしている。週に1度の入浴はオリーヴが介助してくれる―彼は彼の「洗濯屋さん」をオリーヴと呼んでいるのである。ジャックは、稀にしかNHS(国民保健・医療サービス制度)を利用しない。しかし、それでも、ここ5年の間に外科医診療所を通じて白内障の手術を受けたので、彼の生活も変化してきている。
 ジャックは、新しいテクノロジーにさしたる興味を示しはしないが、にもかかわらず、オラクル1)に関わる「棚からぼた餅」的なウーリッジ株価を追いかけている。彼は、時々、衛星チャンネルを廻してゆっくり見ることに興味を覚えたとみえて、スカイ・スポーツ(SKY Sport)を見ないようだ。彼はまた、目の眩むようなマンチェスター・ユナイティッドのウエッヴサイトに出会った時に、インターネットの不思議に興奮さえ覚えた。要するに、ジャックは自分自身の「老いのプロセス」の行為者なのである―事情があることから、たとえ全部が全部彼自身の選択でないにしても、そうなのである。


(U)

 このような説得力のある一連のペン描写は、(職業的な)仕事と社会参加(社会と関わりあうこと)双方についての理念を支えてくれる。そこで私は、先の4人の人物を結びつけるものこそが社会的 媒体の意識であることを主張したいし、同時にまた、高齢者のなかに深刻な異種性をもたらすものには、個々人の意欲や願望と共に、歴史の他に社会状況があることを述べておきたい。したがって、われわれが高齢者の世代(数世代)を隔てた4人の代表者から主要なメッセージを引き出すことができる限りで、またこれら4人の個性が既にわれわれも理解している事柄とどのように一致しているのかを考察する―あるいは考察を始める―ことができる限りで、これら4人のイメージに基づいて、高齢者について「われわれが正しいと理解している事柄」を試験的に観察してみることは許されるだろう。われわれには次のような「真実」から始めるのがよいかもしれない。すなわち、
 
 高齢者は知恵者であり、経験豊富である:「それ故、われわれは尊敬する」。
 高齢者は重要な事柄を成し遂げてきた:「それ故、感謝の気持ちと思いやりに繋がる」。
 高齢者は自分自身の問題を解決する方向と自分自身のイメージとを創りあげている:「それ故、 われわれは感嘆する」。
 高齢者は貧しくかつひ弱かもしれない:「それ故、同情する」。
 高齢者は多くの公的サービスを利用するかもしれない:「それ故、経済的不安がある」。
 高齢者は死のうとするだろう:「それ故、個人的に心配である」。

 見られるように、ここには積極的な側面が大いにあるが、しかし同時に、われわれの意識のなかにある比較的暗い要素の痕跡が望ましい事柄と組み合わさっている。そこには「知識」の比較的面倒な部分が存在しているのである。というのは、われわれは貧困と無力さが目の前に迫ってきているのだという強い意識を経験するかもしれないからである―公的サービスに依存する可能性を云々するのは、そのことと結びついているのである。このようなことと重ね合わさって、死という測り知れない感情を生みだすのである―われわれはわが愛する人を失うことを恐れるのであり、もっと言えば、われわれはわれわれ自身の死すべき運命をいつも思案しているのである。
ここに、個人として、また社会的なレベルにあっては非常に問題のあるものとして、われわれが経験する「老い」についての一連の矛盾が存在するのである―それ故、複雑な現実から撤退するのに、ほぼ間違いなく応対が比較的容易である分かり易い作り話に引きこもる傾向が生まれるのである。したがって、一連の作り話を創作し、それを集成することは相対的に簡単な仕事なのである。以下のリストは、容易に承認できかつまた人の気持ちを動かさずにおかない一連の信念を表現している―とはいえ、そのリストが包括的でないことは確かである。多分、われわれが知っていることは、作り話はたくさんある、ということである。

作り話1:高齢者は皆同じであり、自分のアイデンティティを失っている。
作り話2:高齢期とは貧しく、攻撃され易く、そして病弱な時期である。
作り話3:高齢者は特異な(より深遠な)精神性(spirituality)を身に付けている。
作り話4:高齢者は高齢者ホームで生活するのが典型的である。
作り話5:高齢者は学ぶことができないし、学ぼうともしない―それ故、彼らは労働市場において何らの役割ももてない。
作り話6:高齢者はユーモアのセンスをもっていない。
作り話7:高齢者はセックスレスである。

 このような虚言を吐いて、「ゴールデン・エイジ」(老年)の作り話が創られたのである。すなわち、高齢者にとっての生活、異世代間の関係それにケアは、実質的に過去の時代の方がずっと満足のいくものであった、と。現に、このような作り話の一つ一つを取り上げ、それらに異議を唱えるための証拠には事欠かないのである。高齢者にはそれぞれ差異があるのであって、そのことは他の年齢の集団と寸分も違わないのである。実際のところ、ジェンダー2)、社会階級、エスニシティそしてセクシュアリティといった差別や差異は高齢になっても存続するのである。高齢者が攻撃され易く、脆弱な存在であることは証明され得るが、同時にまた高齢者が経済的に存続可能であることや他の種類の能力のあることも証明され得る。高齢者は教会とその伝統に対して一様な関心や関係をもっているのではない。現在、施設で生活している高齢者のパーセンテージは19世紀中葉のそれと同じであり、およそ5%である。現在の労働市場は一定数の比較的高齢の労働者からの幅広い貢献を求めている(換言すれば、高齢の労働に対する需要が増大してきているのである−中川)。高齢者のユーモアや冗談は、裕福さをもち合わせている十分愛すべき人物によってスクリーン上で描かれている。例えば、ごく少数の名を挙げると、ヴィクター・メルドリューやゴールデン・ガールズである。比較的高齢の世代の引き続く性的な結びつきは、メディアによるイメージを通じ、また高齢者同士の結婚率が高まってきていることを通じて、明らかになっている。最後に、ある「ゴールデン・エイジ」(老年)の作り話は、数世紀にもわたって参照された古典文献によって粉砕されているのだが、それと同じような作り話、すなわち、高齢者はもはや比較的若い世代の尊敬を得ない、という作り話も粉砕されている。それは「プラトンの共和国」に出ている!
 このことは、高齢者がある範囲にわたる(高齢者の)積極的なイメージ―このイメージを支えるためには「豊かに老いていく」のに相応しい環境を創りだすように社会に圧力を加えることになるが―を文化的にも経済的にも作ろうとしていることに当然払うべき注意を払わなかったことを意味する。むしろ、われわれ―より広範な社会―が、このようなかなり居心地の良い、しかし験されてはいない作り話の背後に逃げ込んでしまっているのであって、その結果として、高齢者は、社会が社会自らを護るために啓発し、洗練している、そのまさに作り話によって「見えなく」されてしまっているのかもしれないのである。この効果は、累積的であって、究極的にはすべての作り話のなかでもっとも有力な作り話―社会的弱者(その存在を無視されている人, non-person)のそれ―に変形されてしまうのである。このことはシモン・デ・ブーヴァーによってもっとも説得力のある形で表現されている。「社会の目からすれば、高齢者は執行猶予の判決を受けた死体そのものである。」
ここには何よりも寒気のするイメージがあるのに、多くの人たちはそのイメージに賛成するのである。実際のところ、それは、もっとも脆弱で、攻撃され易い高齢者の多くが、期待を打ち砕かれてその屈辱を避けるために一種の自己防衛を行なうようになる、という説明である。このような期待のなかには、自分を訪ねてこない息子が含まれるかもしれないし、あまりに忙しいためにまったくケアしないケア・アシスタントも含まれるかもしれないし、また必要最小限の生存を支える以上のことを決してしない年金も含まれるかもしれないし、さらには誰一人分かち合おうとしないのに、ただ生き長らえているだけの思いでも含まれているかもしれないのである。このような経験が現実にあることは否定され得ない。しかし、同じく、われわれは進んで、老後の新しい機会や新しい達成によって特徴づけられる多様性を認めたり、促したりしなければならない。そこで、われわれは、別の一連のイメージを以ってこのような消極性に異議を唱えたいと思う。


(V)

 さて、4人のキャリア高齢者に戻ろう。で、われわれは彼ら個人のプロファイルについてどのような意見を言うことができるのだろうか。印象的には、4人が4人とも違っていることは明らかであるし、彼らが高齢という点での同一性と消極性という観念―それもこれまで長い間もたれてきた観念―に挑戦していることも、明らかである。ネルソン、エリザベス、ティナそれにジャックがそれぞれ、いくつかの決定的な個人的差異を示していること、また彼らの積極面と消極面の賢明な混合を示していることも、間違いない。
 現在64歳のティナと102歳のエリザベスに関して言えば、両者の年齢集団の間には約40年もの開きがある。したがって、ここでのポイントは、そのギャップは狭まりつつあるものの、相変わらず女性の方が男性よりも長生きであることから、「高齢」は「女性の年齢」を指している、という事実である。ウィンザー家の家母長としてのエリザベスおよび毎年(世界の)トップ・テンに数えられる蓄財家である彼女の娘(エリザベス女王)について言えば、農村で生活しているわが年金受給者のジャックとはまったく異なる階級である、ということである。先に言及したように、4人のキャリア高齢者の生活体験は、他の高齢者のそれと同じように、まったく異なっている―例えば、家庭内暴力(DA)の犠牲者であった人、長期の政治犯として囚われの身になった人、若くして夫を癌で亡くしずっと未亡人であった人、90歳で再婚した男性、等々さまざまであろう。そして、4人の個人を通して見ると、われわれの多文化社会を特徴づけ、またその影響が高齢になっても存続する民族性や国民性の差異がはっきりすることは、言をまたないだろう。
 では、1つの重要な社会的カテゴリーとしての「年齢」という原点と特性とは何であろうか。そこでわれわれは、次のような枠組みを考察することができよう。

◆生物学的変異の直接原因としての年齢、
◆「行動能力指標」(performance indicator)としての年代学的年齢、
◆文化的表現としての年齢、
◆社会的結びつきをもたない時期(period of disengagement)としての年齢、
◆ある範囲の他の人たちによって社会的に構成されるものとしての年齢。

明らかに、われわれは、生物的寿命の推移に関わる、人びとの間の生物学的差異の主要な直接原因を表現するものこそ年齢である、という疑問の余地のない事実を受け入れている。しかしながら、他方でわれわれは、限られた生物学的モデルが果たして人種的差別やジェンダー差別についてのわれわれの理解に有効であるのか、躊躇してしまうのである。年齢と結びついて考えられている生物学的変異が、実際上高齢者は本質的に種々さまざまである、という広く流布している信念を助長してきたことは自明のように思われる。換言すれば、肉体的および精神的な機能低下が取り沙汰されるのは、高齢者の生活において進み続けているものが何であるのか、それについての必要かつ十分な説明をしてくれる、避けることのできない確定的な特質を示すためなのである。だが悲しいかな、われわれの社会的反応は「老い」の生物学的モデルあるいは医学的モデルに根を下ろしてしまっているのである。
 年代学的年齢が生物学的変異の直接原因を表象していることは明らかである。その典型は、体操選手は20歳がピークである、40歳を過ぎた出産はチャレンジングなものになる、60歳にもなれば眼鏡をかけ、男性は頭が禿げるのが一般的だ、というものである。しかし、このような観察では生物学的変異には大きな個人差のあることが考慮されなくなることから、個別性に基礎をおく「年齢カテゴリー」という考えが生まれる。そうなると今度は、その「年齢カテゴリー」論は、医学的モデルに導かれて、進行性的、一般的機能低下の意識と結びつくようになる。そしてその結果起こることは、ある種の「行動能力指標」として、年代学的年齢あるいは「カレンダー年齢」の無批判的な受け入れである―ただし、ある種の「行動能力指標」は、期限を基礎にしたソーシャル・プロセッシング(コンピュータ処理)を必要とするサービス・プロヴァイダーには有用である。かくして、われわれは、18歳以後は児童手当を申し込まなくなるし、60歳あるいは65歳以前には国民年金を請求することができないし、自動車免許の健康状態調査が70歳から開始される、等々となってくるである。そこで問題になるのは、それらの境界線で発生する困難や差異の範囲である。おそらく、年代学的年齢に焦点を合わせるのは、われわれを誤った方向に導き、真理を歪めることになろう。アレグザンダー・カムフォートの言葉―それは、破滅的な批評であるが、同時にわれわれすべてが遭遇する批評である―を借りて言えば、こうである。

 年齢差別は、指定された年数を生きていくことによって、人びとが人びとであることを止め、同じ人びとであることを止める観念であり、あるいは他の人たちとは異なった、そして劣った種類の人びとになる、という観念である。(A. Comfort, A Good Age, 1977.)


 生物学や年代学が、良くても部分的な説明しかせず、最悪の場合には曲解した説明を与えるかもしれない、とのことを仮にわれわれが受け入れるとすれば、われわれは、その代わりに、作り話や誤った説明という問題にどのようにしてアプローチすることができるのだろうか。われわれは、「老い」のより豊かな文化的解釈を行なうのにどこに目を向ければよいのか。そうであれば、われわれとしては、現代生活の至る所で見られる特徴として年齢差別を問い、ある範囲のメディア表現を考察することの方が良いのかもしれない。
 われわれは、テレビのコメディで演じられている高齢者の性格の表面を参考にすることができるが、そのコメディで高齢者は、ステレオタイプのイメージを演じると同時に異議を唱えてもいる―しかし、アラン・ベネットのような顕著な例外がいくつかあるけれども、多くの作家たちは高齢の俳優のために英雄的な役あるいは印象深い役を創りだしてはいない。広告では高齢の俳優はターゲットとなる聴衆向けに選び出されるにすぎない―Stannah stair liftをプロモートするThora Hird、あるいはSAGAタイプの高齢向けホリディをプロモートする、ぼんやりしていて酒に酔っている白髪混じりの新しい愛好者たちがそれである。前者は攻撃を受け易い弱さについての、後者は新しい市場の商業的最適化についてのものである。新聞ではある特殊な形態の報道がパッと注意を引く―地方新聞は、犠牲者あるいは気むずかしい老人として高齢者のストーリィを報道し、人口統計学的変化についての社会的コメントを特集記事にする。すなわち、「おせっかいなお婆さんがうなって知らせる危険」であるかの如く、「老いること」の計量経済学者の見解を説明するのが「手頃である」という簡略報道、である。
 このことが何を明示しているかと言えば、社会科学者たちが機能心理学理論と称するものに向かって、また初期の老人学者たちが離脱論(disengagement)―すなわち、高齢者は自分たちの運命を受動的に受け入れて、不平を言わずに「夜は静かに床に就く」、という理論―として再考案したものに向かっていく強力な偏った傾向である。これが、高齢者に許される役割と責任の縮小に対する学術研究的反応であり、無難な反応である、と主張されたことなのである。重要なことは、「老い」の理論へのより有効な現代的アプローチは、「老い」の組み立てられた依存性について語ることである。換言すれば、高齢者の引き続く相関性(機能性)と満足のいく生活状態(役割と責任)は、われわれ―すなわち、より広範な社会―が当を得た形で物事を促進し易くする(あるいはしない)という社会の構造に左右されると見られている。これは高齢者と労働市場と市民社会そのものとの間の関係を明確にするのである。


(W)

 こうしてますます、われわれは、年齢の新しいイメージを通じて次のような要求を明示することが可能となるのである。すなわち、

◆高齢者は、調整を取りながらではあるが、自らを支えることができるし、現に支えている、
◆高齢者は、自分たち自身のステレオタイプを楽しむことができる、
◆高齢者は、子供扱いされるのではなく、子供のように純真な満足を享受する。

社会的媒体のこのような意識を社会全体に行きわたらせることを可能にするものこそ、人びとの尊厳を高め、人びとに権能が与えられるよう企図される環境を率先して組み立てようとするより広範な社会の意志である。それ故、「巧く老いる」ためには、社会的な「高齢の世界」と肉体的な「高齢の世界」とが結託・共謀して、個人にはどんな弱さも短所も秘密にすることができるようにし、その代わりに自分たちがもち続けている強さを見せることができるようにしてあげることである。別言すれば、これこそが、変化を必要とする高齢者自身のさまざまな側面や自分のアイデンティティに高齢者が首尾よく対処できるようにしてあげることである―もちろん、他方では、継続性を明示する他の側面を強調し、それを継続させていくのである。比較的初期に用いられた専門用語を使って言えば、これは意味のある(職業的な)仕事や歳相応の社会参加を促進するであろう。かくして、より広範な社会にいるわれわれは、そのような共謀を助けかつ扇動する個人的責任と専門家としての責任の双方の責任をもち歩くのである。


(X)

 このことは何を含意しているのだろうか。われわれは、「社会再参加論」を目指して努力する際に老人学の研究に従事する、との一連のラジカルなメッセージを伝えなければならない。現実の高齢者の特質を伝えるメッセージは次のことを包含している。すなわち、

◆老いは、「望ましい」(good)し、楽しみを与えてくれる、
◆老いは、積極的な達成(功績、achievement)になり得る、
◆高齢者は、貢献する、
◆われわれは、専門家ではない、と誰よりも認めている、それ故に、
◆公共政策は、エンパワーメント3)に関わらなければならない。

これらのことが、そのライフ・ストーリィを通じて、証人となってくれたさまざまな俳優(行為者)によって伝えられたメッセージである。重要なことは、われわれが注意深く耳を傾けるならば、高齢者の声とイメージはわれわれの思考と行動を導いてくれる、ということである。
 われわれが考察してきた良く知られている像から、すなわち、愛用のスクリーンに登場した人たちから、またわが友人や高齢者家族からわれわれが理解することは、社会参加はアイデンティティと媒体の本質的な特徴である、ということである。社会参加は、われわれが誰であり、われわれは他の人たちによってどのように理解されているかを明らかにする―また社会参加は、わが「社会的世界」の境界線を精密に地図に示すのである。高齢者の力(power)は、さまざまな形態の社会参加を通じて、受け入れることのできる境界線を再調整したり、回復したりする彼らの能力(ability)にかかっているのである。理論家にとっては、これは、高齢者が社会からの離脱することではなく、高齢者が再び社会参加する1つの形態として組み立てられ得るだろう。
 終わりに際して次ことを述べておきたい。本ペーパーは、われわれが生活している(そして生活し続ける)世界を形成してきた(高齢の)男女―彼らは現実の世界でさまざまな役割を果たしている―に焦点を当ててきたのであるが、果たして、われわれは、彼らの努力を称えることによって、また―われわれの将来そのものを含めて―将来にはすべての世代のために完全なシティズンシップ(市民権)を実現するのだという自分自身の義務と責任を明らかにすることによって、彼らの過去と現在の(社会的)貢献を公正に評価できるのだろうかということ、これである。


<訳者註>
1)オラクル(Oracle)はアメリカ合衆国のソフトウェア開発・販売会社。
2)ここでは、ジェンダー(gender)は、一般に、社会的、文化的につくられた性差別を意味する、と理解しておけばよい。因みに、セクシュアリティ(sexuality)の差別とは、文字通りの男女の肉体的性別に基づく差別を意味する。
3)エンパワーメント(empowerment)は、例えば、コミュニティやコミュニティの住民がコミュニティのために行なう事業活動や社会活動を自発的に管理運営する能力、機能、権限をコミュニティとその住民に保障することを意味する。


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