『協同の發見』2002.2No.116
『協同の發見』目次
巻頭言
ディーセントワークまたは
ワークのインフォーマル化


島村 博 協同労働法制化市民会議事務局長/
協同総研主任研究員

 ILOの目標にディーセントワークという術語が登場している。しかし、まだ、訳語はない。それは、ILO駐日代表、堀内光子氏によって1)「雇用」と失業、2)就労する者の「権利」とその否定、3)充たされるべき「社会保護」とその不十分さ、4)「社会対話」とその機会の不在、というギャップを克服するものとして提示されている。

 これら、それぞれに、「雇用ギャップ」、「権利ギャップ」、「社会保護ギャップ」、「社会対話ギャップ」というラベルが貼られる。第1のギャップは構造的持続的失業や「社会的排除」(「社会的アパルトヘイト」とも言う)、第2のギャップは労働法制により規格化され保護された労働関係の解消、緩和を言い当てるものである。第3、第4のギャップについては、前二者よりは、こみいった問題が認められる。

 ここで各々のギャップについて問うことはしない。国際的スケールの「社会的対話」機構であるILOにおいてこういったギャップの克服が課題とされなければならなくなった時代を背景として、ILO127号勧告案にまつわって2つの論点を取り上げてみたい。

 第1に「ギャップ」の克服を「勧告案」に盛り込む意味。

 使用者側がそれに反対する理由は、議事録からは説得的なものとは到底思われない。なぜならば、日本でも欧州諸国でも協同組合「セクタ」で就労している者は相当数にのぼり、他の分野と同様にここでも労使関係が成立しているからである。EU執行委員会は「第3セクタ」での「雇用」が官民部門に比して2〜3倍の雇用吸収力を示していることを確認している(「雇用のための地域行動」、2000年4月7日)。そして地域雇用開発の中心が協同組合による社会連帯的サービス分野にあるとの認識は一般化しつつあり、NPOの協同組合への改組を誘引する先頃のフランス協同組合法の改正にも見られるように、これを促進助成する法改正も進んでいる。

 この文脈では「協同組合勧告案」の緒言に国際労働基準を掲げることは極めて正当である。当該の諸基準は、協同組合のその成り立ちにも沿う、ディーセントワークの内容をなす「権利」・「社会保護」ギャップの克服を端的に示す規範的内容を示すものであるからだ。さらに、「第3セクタ」の労働は今後労働市場のメインストリームとなると見込まれる(A・リピエッツ)ので、協同組合で働く者の権利が一般企業の労働者と同様に保障されなければならない、ということを改めて確認する必要は充分すぎる程に大きい。むろん、労働組合とも価値を共有する協同組合自身がこういった基準を、「勧告」されずとも申し分なく達成することは「自立」、「自助」、「連帯」の組織として当然である。

 第2に「ギャップ」の克服は変化しつつある現代的な労働関係そのものに対抗するものである。

 先進諸国では、80年代以降、とくに、「権利ギャップ」の拡大が基本的な趨勢となっている。それ以前において途上国に見られた労働関係・様式が先進国においてすら稀ではなくなり、労働一般が非正規化(「周縁化」)しつつある、という事態である。それをわが国では「不安定就労化」と言い、欧州では「南アフリカ化」との呼び名が与えられ始めている。

 先頃までは、こういう現象は「インフォーマル・セクタ」(詳しくは、「発見」誌第115号所収の解題を参照)という術語によって途上国の女性労働者をめぐる領域の問題とされた。因に、それはペストフ・トライアングルにおいても「ファミリー」の領域事象として位置づけられている。この意義では、それは、法人企業であるかぎり協同組合企業のみならず一般の企業にも縁遠い現象であったに相違あるまい。

 だが、大量消費を誘導するためにも大量生産を担う働く者(家族)の生存権を中心にして「社会保護」を含め築き上げられてきた「権利」体系は、ここに至って急速に瓦解しつつある。それは同時に大量失業、ごく一部の階層を除外して社会的下層に止めどもなく落ちて行く「砂時計の社会」(または、競争力のない企業が潰れるのはあたりまえ、とする小泉改革)となって現われている。労働市場への国家介入の下での安定した労使対等の交渉・妥協(コルポラチズム)にかわり、働く者どうしを「個人化」した水準のあらゆる面で生涯にわたり競争(企業内での「年俸制」に端を発し「生涯学習」まで)させる19世紀的な就労環境への回帰すらもたらされつつある。だから、人間のこういった徹底した「個人化」のオルタナティブとして協同が位置づけられる。

 かくして、「インフォーマル・セクタ」において典型的に見られた現象が先進国も含めて世界のいたるところで、しかも労働一般において進行している事態はワークのインフォーマル化として把握されうるのである。問題なのは、既に述べたように、それが、制度疲労を起した法制度の国際化という名のもとで、たとえば、わが国においてもネガティブ・リストに基づく「派遣法」や裁量労働制といった法的仕組で是認され、今後において「有期労働契約制」すらも予定されていることである。だから、ワークのインフォーマル化のオルタナティブとして協同労働が位置づけられる。

 故に、この二重の脈絡で、ディーセントワークが、それを実現する所与条件である国際労働基準ともども「勧告案」に盛り込まれる意義はことのほか大きい。それとともに、世帯ではなく個人を社会的・経済的単位とする流れ、「個人化」を性別役割分業の克服に止まらない機会均等というジェンダー視点を含む社会保障、労働権の充実をめざす方向で舵を切り替える、そのことによりギャップを克服することが重要な課題となる。

 ディーセントワークを労働世界一般において時代の「課題」として提起させたものこそ、実に第三世界の「女」という性、女性労働の収奪に懐胎し、先進諸国で性別を問わず普遍化しつつある事態だからである。だから、「性」の抑圧を内在化した労働に対するオルタナティブとして協同労働の協同組合の働き方が輝きをますのである。

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