『協同の發見』2000.8 No.99 総目次
インドの労働者協同組合(3)

ケララ・ディネッシュ・ビーディ ――インドの先導的労働者協同組合のプロフィール

KERARA DINESH BEEDI:A PROPFILE OF A LEADING WORKER COOPERATIVE IN INDIA

Yashavantha Dongre & Surreshramana Mayya
翻訳 菅野正純

 ケララ・ディネッシュ・ビーディの名前は、協同組合が製造する高品質のビーディ(糸で縛った巻きタバコ)によって、ケララ州ではつとに有名である。その名前はまた、それが職を失った数千の労働者の苦しみを感動的な自助運動の基盤に転化した労働者協同組合であるという点でも、インド中によく知れ渡っている。インドでは、過去20年間に新世代労働者協同組合が数を増してきたが、ケララ・ディネッシュ・ビーディはその中でも最も初期のものである。それは、自らの経済的・社会的運命を切りひらこうとする労働者階級の決意が、インドにおいて先駆的に成功を収めた実験のひとつである。

 ビーディ産業は、1960年代から80年代を通じて、インドの西海岸で民間部門の企業が大きな繁栄を誇った産業のひとつであった。この産業は、その所有者に富を、ビーディを巻く家族にパンをもたらしたことで知られていた。だがこの産業はまた、ビーディ工場の私的所有者による、数万のビーディ巻き労働者に対する搾取によっても有名だった。ケララ州政府が執行を決意した政策は、何よりもこの部門の労働者の条件を改善し、その所有者の犯罪行為を統制しようとすることであった。1966年の「ビーディ・シガー労働者(雇用条件)法」を改正した「中央法」が、1968年10月に制定された。だが州の政策に対して、主要なビーディ製造業者は、その工場の閉鎖をもって応えた。その論拠は、新たな条件の下では事業を運営できないというものであった。閉鎖は実際上、1万2,000人のビーディ労働者が職場から投げ出され、家族が主要ないしは唯一の所得源を失うことであった。

 州政府と地域の指導者は、絶望的なことを承知で、製造業者がその工場を再開するよう説得した。だがこの試みが失敗に終わるや、州政府と労働組合指導者は、投げ出された労働者の避難所を協同組合の傘の下に求めることとした。こうして、1969年2月15日、ケララ・ディネッシュ・ビーディの物語が始まった。職なき労働者は、20ルピー相当の出資を引き受けることすら、ままならない状況であった。州政府はこうした状況を斟酌して、労働者には1ルピーを積み立てることを求め、各人に出資貸付金として19ルピーを補填した。労働者は数ヶ月以内に自らの週給から貸付金を返済し、協同組合の完全な組合員となっていった。州政府は、なお約200万ルピーの出資を組合にしている。発足時は、300人の労働者が20工場で雇用を与えられ、残りの労働者は待機状態に置かれた。新たなブランドのために市場を見出すことは、骨の折れる仕事である。それゆえ、最初の数年はストレスと緊張の連続であった。だが、それらのすべてが、決断と献身的な労働、そして知的な計画によって克服された。いまや22工場のネットワークとなったこの協同組合は、約40,000人の労働者を組合員として擁し、その家族は必要としていた多くの経済的・社会的保障を手にしている。

 管理(マネジメント)

 最初の理事会構成メンバーは、州政府とすべての主要な労働組合からの代表によって指名され、議長は政府の役人であった。「労働者参加管理(Workers Participative Management)」というスローガンは現実のものとなった。現在では、選出された理事会は、IAS(Rtd.)のシュリ・G・K・パニッカーが議長を務める事務所に置かれている。彼は組合の本当の最初からここにいた人物である。理事会が発揮している管理機能は、インドの様々な州の注目を引き、モデルとして認められている。

 生産

 製造ラインは、カンナノーレ、カサラゴッド・カリカット地区やバダガラ地方にまたがる22工場の各センターに設置され、それぞれに専門労働者を配属して、質の高い原料を用いている。品質管理室が、すべての生産段階を監督している。この分野の専門家によって率いられる研究部門が、各種のビーディの味と品質の保持に努めている。商標登録された4種類のビーディが、ケララ・ディネッシュ・ビーディのメディアム、スペシャル、ラハダーニ・スペシャル、およびスモールという、それぞれに異なる味で生産されている。

 販売

 製品は、どの市場でも動きが速い。統一価格による地方流通チェーンを通じて、市場拡大のためのあらゆる努力がされている。最初は販売がきわめて困難だった。というのもブランドに馴染んだ喫煙者は、一般に新しいブランドに手を出さないからである。こうした初期の困難は、大胆な経営決定によって克服され、市場におけるディネッシュ・ビーディの円滑な流れに道が敷かれたのである。いま、1日の売上は、120万本を上下している。

 労働から生まれる資本(Capital out of Labor)

 事業計画全体が、自己資本によって動いている。当初、ケララ政府は、71万ルピーの運転資本貸付を認め、200万ルピーのキャッシュ・クレジット・サービスに保証を与えた。政府からの運転資本は、長期に返済される。いまやディネッシュ・ビーディは、自己資金によって繁栄しているのである。労働者が最初に得た1ルピー当たり5パイサ(1パイサは100分の1ルピー――訳者)の節約積立が、今では2,000万ルピーに達し、事業の活力源として用いられている。この起業が外部に一切債務を負っていないということは、誇るべきことである。このネットワークは、単に成功した協同組合というだけでなく、繁栄しつつある事業体でもある。2000〜2001年の予算見通しは、ほぼ6億4,000万ルピーであった。これらすべてのことは、職場の労働者による1ルピー資本拠出から始まったのである。

 手当てと奨励金(Benefits & Incentives)

 労働者はインドの産業の中で最高の賃金、その他の奨励金を得ている。彼らは、1966年の「ビーディ・シガー労働者法」(雇用条件)に規定された手当だけでなく、自分たち自身の制度を通じて組合が上積みした手当てをも受けている。いまや彼らは、国民の祝日7日分の有給休暇を得ている。もう一つの新しい祭日は、毎年2月15日の「ケララ・ディネッシュ・ビーディの日」も、ビーディ労働者のカレンダーに加えられた。彼らはまた、日曜有給休暇(Sunday leave with wages)、20日につき1日の有給休暇、出産手当、給付・倹約基金(Gratuity and Provident fund)なども得ている。いま組合員労働者は、自分の総賃金の13%に相当する年間ボーナスを受け取っている。これは、民間の他のビーディ産業では、どこも出していないものである。

 独自の福祉制度(Own Welfare Schemes)

 この新たな労働者協同組合は、多くの新しい福祉制度を導入してきた。死亡・家族・福利基金(Death−Family−Benefit fund)が導入され、実施されている。5,000ルピーのこの直接的な現金給付は、勤務中に死亡した労働者の遺族に与えられるものである。退職手当基金も実施された。これは、総額3,000ルピーを、12年勤続で退職し年齢58歳に達した労働者に与えるものである。

 社会的影響

 カンナノーレ地区のビーディ産業は、多くの不安に悩まされていたが、今では不安は過去の話となった。すべての要求と紛争は話し合いによって解決される。この協同組合が提供するサービスのために、民間部門も自分たちの労働者にますます多くの手当てと奨励金を与えるよう、社会的に強いられている。ビーディ労働者は常に、文盲で、何も新しいことができない貧しいグループと見なされてきた。だが、ディネッシュ・ビーディは、こうした見方が誤りであることを証明し、労働者のこうした大規模グループの社会的位置を高めた。一般公衆がこれらの人びとを知るようになり、尊敬の念を高めて、彼らをも満足させた。インド中のビーディ労働者の現状が明るみに出され、他の州の政府も立場を進めて、彼らの利益を保護する多くの法律を通過させるに至ったのは、まさにこの協同組合の努力によるものであった。
 ディネッシュ・ビーディの事業の繁栄は、政府にもよい収入を与え続けてきた。ブレンドされたビーディは、1975年以来、物品税の課税品目である。この組合は、中央物品税として、毎日12万5,000ルピーを払っている。それゆえ、協同組合は、物品税という形だけで1億8,000万ルピーをこれまで政府に払ってきたことになる。ケララ州政府は、売上税の形で50万ルピーを、組合への出資配当の形で5万ルピーを、毎年得ている。協同組合はまた、地域およびコミュニティのさまざまな開発活動のために、寄付を行っている。

 最近の動向

 世界中のタバコ産業全体は下降の方向をたどっており、ビーディも例外ではない。ディネッシュ・ビーディは、その将来性が明るくない産業の中にあることを知っている。彼らはまた、ビーディを巻くことがあまり健康な活動ではないこと、長くこの職業にいることが体によくないことも知っている。それゆえ協同組合は、他のより発展的な方向へ事業を多様化し始めた。この方向への最大の歩みとして、協同組合は、ディネッシュ食料部と称する食品加工産業を1999年に開始した。この部門は、ココナツ・ミルクやココナツ(チャマンティ)パウダー、加工エビ、ピクルス、カレー・パウダー、チリ・パウダー、ターメリック・パウダーなどの多数の日用食品を製造するものである。この部門は売上と利益を急速にあげている。協同組合は、他に二つのより多様なプロジェクトを計画している。ディネッシュ傘部門、ディネッシュ情報技術システムである。前者は、ビーディを巻き続けてきて、ビーディ需要の減少と健康上の理由のために今ではそれができなくなった労働者のために仕事を見つけようとするものである。これに対して、後者のより現代的なプロジェクトは、組合員の子どもたちのために仕事を見つけることが可能である。子どもたちは、次の世代であり、より教育を高めて、より技術的な仕事を手にすることは明らかである。

 ケララ・ディネッシュ・ビーディは、このように、新世代労働者協同組合の理想的な実例を提供している。近い将来、新世代協同組合はいっそう増大していくことであろう。

(この記事は、ほんのプロフィールに過ぎないものであり、本組織のパンフレットやその他のニュースを参照して作成したものである)

(ヤシャヴァンタ・ドングレ:インド・ハッサン州マイソール大学、卒後センター、商学教授/スレシュラマナ・マイヤ:インド・ウドゥピ州MGMカレッジ、商学講師)

8月号目次協同総合研究所(http://JICR.ORG)