石塚秀雄の海外ワーカーズコープ漫遊記 |
中国の労働者協同組合 |
『仕事の発見』第4号(1994年6月)所収 |
春の北京の大通りは、一面に白い柳の綿すなわち柳絮が日差しを浴びて、まるで雪のように降ります。通勤の自転車の群れが流れていきます。自転車の後ろについた小さな荷車の上に家族を乗せてお父さんが一生懸命こいでいます。通りを走る自動車、中国では汽車といいますが、の中にはドイツ製の新車が多く混じっており、中には子供を助手席に乗せたベンツの新車もあります。役人らしき人間が乗っている車に多く見られたのは、日本製の10年くらい前の黒塗り高級車の中古です。黄色いタクシーがたくさん走って活気があります。
北京の道路、すなわち大街は名古屋のような大きな道路ですが、信号が数えるほどしかありません。人々はどのように幅の広い道路を渡るのでしょうか。それは偉大な人民の力です。一人だけでは専制的な車は止まってくれません。道路を横断したい人が徐々に溜まっていき、集団の頭が少しずつ道路に迫り出していきます。車がその鼻先を猛スピードでかすめて行きますが、後続の車はまだなかなか止まってはくれません。しかし、ついに飽和状態に達すると、車は人々の前でようやく止まります。量から質への転換を北京市民は日々経験しているようです。おとしよりはもちろんのこと、のろのろしてる人は大通りには出てこれません。北京では歴史的建物の向こうにホテルなどの近代的高層ビルが見られます。ホテルに出入りしてるのはお金持ち、一週間分の給与ほどの値段もするマクドナルドも人々でいっぱいです。北京の駅は、昔の上野駅のような地方から出てきたと思われるような人々で溢れています。
中国は、1978年に登小平が権力を握ってから、「一国二制」の国、すなわち資本主義と社会主義を中国で両立させるという考えの元に、経済改革が進められています。北京の通りの眺めは、この偉大なる11億の民族において、その先頭を走る者の後ろにあまりにも長い行進の列が続いていることを思わせるものです。中国は、社会主義市場経済という名前の下で、経済自由化を進めています。南のシンセンや上海などのいわゆる沿岸重点地域では、いまや初期資本主義的な成功者が排出し、また高賃金に引き寄せられて多くの人口が流れ込んできています。農村ではいわゆる郷鎮企業と呼ばれる旧農村公社を改変した工場が多く作られています。政府は株式会社をたくさん作ることに力を入れ、株式取引所も開設され、投機目的の人々が集まってきています。
中国は資本主義の道を確実に歩いているのでしょうか。その答は誰にも簡単には出せないでしょう。中国は、政府と共産党という鳥かごの中で、青い鳥を育てようとしているようです。雛が育った後には、篭がいらないのか、あるいはもっと大きいかごにするのか、鳥は外に出て自由に飛びたいというのかはわかりません。しかし、現在のところ、中国の年間10%にもなる高度経済成長の実績は、かごと鳥の関係は良好であるということを物語るものでしょう。
さて、中国の労働者協同組合とはどんなものでしょうか。中国社会主義における理論的な面での協同組合は、もちろん労働者の主権、経営参加など、さらには財政的にも行政的にも官僚支配の従属を減らすということでしょう。4つの原則つまり社会主義の道、人民プロレタリア独裁、共産党の指導、マルクス・レーニン主義と毛沢東思想を掲げる中国でこれは果して可能でしょうか。本来、毛沢東の理想も平等な人々の暮らしであったはずですが、自らが独裁的権力の虜になり、その過度の平等追求が全体主義的不平等に逆転してしまったといえます。
中国では全国手工業合作総社が抗日戦争の頃の1929年に設立されました。これは革命根拠地、いわゆる解放区に軍需物資生産などを中心に作られたものでした。解放後の1950年に全国合作社連合総社(協同組合連合会)が設立され、販売、消費、手工業、信用、漁業などの各種合作社が作られました。
1949年10月1日、天安門前の広場で、中華人民共和国の成立が毛沢東主席により宣言されました。当初、統一戦線・民主連合政府的色彩の濃かった政府は、農業の集団化とともに、私企業の国営化を推進しました。農業生産協同組合は、1955年には農家総数の14%が加入し、翌年の56年には96%以上の農民が加入しました。一方、私企業も農業の協同化に併せて、「公私合営」への切り替えが促進されました。これは政府が資本家に対して、所有企業の財産に対して一定の利子を支払って管理権を取得し、資本家にたいしては経営管理者などとして仕事を保証するというものでした。1956年には7万の私営工業のほとんどとが「公私合営」か協同組合商業に切り替えられました。零細手工業者たちも各種協同組合を作りました。
こうした中で、全国合作社連合総社は、政府の管理の下に中華全国供銷合作総社に1954年に改組されました。この供銷合作総社は、農民国である中国において、農民社員1億6千万戸を組合員とする農村における生産、供給、販売の協同組合です。全国の農民の85%を組織しています。一方、手工業合作社は政府の手工業管理総局と軽工業部の管理に置かれました。
1966年から10年間にわたる文化大革命は1976年に毛沢東の死去により終了しましたが、この間、手工業合作社は活動を実質的に停止しました。1982年に政府は合作社活動再会を指示しました。手工業合作総社は、1986年に全国の「集体企業」を集めた代表会議を開催し現在に至っています。(集体とは集団所有のことで、個体企業とは8人まで賃金労働者を雇える個人企業を言う)。
中国の生産協同組合(手工業合作社)は1993年に「中華人民共和国城鎮集体所有制企業条例」(城鎮とは都市という意味で農村の郷鎮に対応する)の制定によ法人格を持ち、その集団的資産所有権と経営管理権を保証されており、また企業の民主的管理の規定を行っていますが、政府や党の強い統制下にあります。連合会には全国に2531の地域連合会を持ち、5万4千の合作社に労働者526万人が働いています。もちろん大多数が中小企業で、工芸品、家具、皮革製品、機械製品などの日用消費財を生産しています。市場占有率は、「5,6,7,8」と称して、軽工業部門生産の50%、職人労働者数の60%、輸出高の70%、企業数の80%を占めています。
中国の協同組合連合会は1985年にはICA国際協同組合同盟に加盟し、手工業部門もICAの労働者協同組合委員会CICOPAに最近加入しています。中国政府の経済解放政策の中で、合作社の役割も重視されてきています。
中国の近年の経済解放政策は、その管理権を政府や党から専門家や企業長に移すことにより、政治統制と経済管理権を分離することにより生産性を上げ、労働者の経済欲求に応えていこうとしており、計画経済対象品目を大幅に減らしてきています。政経一体の人民公社は1993年の憲法改正で削除されましたが、労働者自身が企業の主人公になるには、まだ上からの「指導」は強いと言えます。
とはいえ、中国政府はより民主的な労働者協同組合の実験的試みをも、限定した中で認めています。この組織は、「工合(グンホー)」という組織で正式には中国工合国際委員会と呼ばれるものです。グンホーとは日本語では協働といった意味です。中国の工業協同組合の歴史は、実はこのグンホーから始まったと言えるのです。
労働者協同組合のアイデアは、日中戦争(1937-1945)の時に国際的支援のために中国にきた外国人たち、特にアメリカ人のエドガー・スノウやその妻ニム・ウエルズなどにより紹介され、彼らは積極的に生産協同組合作りに手を貸しました。特に中心的な存在だったのは、ニュージランド人のレビイ・アレイでした。彼らは中国の愛国者たちとともに、グンホー運動を初め、人民の自助と失業者を抵日戦争の為の被服や弾薬などの物資生産に動員することを目指しました。1938年には武漢で中国工業合作協会を設立しました。共産党や宋慶齢といった著名な活動家たちがこの運動を支援しました。最多時には、3千の合作社と3万人の組合員が組織されたといいます。この運動にはイギリス、カナダ、フィリピン、ヨーロッパ諸国など多くの国から募金が寄せられました。
このグンホー運動は、いわゆる労働者協同組合の理論と原則に基づいて、労働者が企業の主人公として民主的参加をすることが重視されました。革命後、その自主性がなじまず、また中国指導部における協同組合に関する政治闘争の結果もあり、1952年このグンホーは、活動を停止してしまいました。
しかし文革終了後以後の中国の社会主義近代化政策の中で、見直しが進み、1983年に中国工業合作協会は再び組織され、1987年にグンホー委員会の活動が復活しました。もともと中国革命の幹部たちや登小平、李鵬などと古いつきあいのあったレビイ・アレイは同年死にましたが、彼の60年に渡る中国での活動の遺志をついで、基金が設立され、真に労働者協同組合的な生産協同組合の経営が試験的に取り組まれています。開始後3年間で、甘粛省、湖北省、山東省、それに北京郊外の4地方において23の工業生産協同組合(合作社)ができ、組合員2千人の規模になっています。この中には石油技術学校や身体障害者も組合員になっている工芸品の工場などもあります。
中国では、一般に株式会社の設立が進んでいると言われますが、協同組合企業の発展こそが、労働者の国としてはふさわしいものでしょう。偉大な国である中国の長征はこれからも、長い帯になって続いていくものと思われます。
以上
(参考文献:岩村・野原『中国現代史』岩波新書、1969)