石塚秀雄の海外ワーカーズコープ漫遊記
ドイツの労働者協同組合
『仕事の発見』第13号(1996年1月)所収

ドイツ的伝統

 19世紀末に「鉄血宰相」といわれたビスマルクがとった社会政策によって、当時のプロシャは、労働問題と社会保障の二つに対処しようとしました。片方の手には「社会主義鎮圧法」という鞭と、もう片方の手には「社会福祉法」という飴で、国民を取り込もうとしました。それにより1880年代には国家による医療保険、労災保険、老齢保険が実施されました。ビスマルク政治は労働運動の高まりなどで失敗に終わりますが、しかし彼の取ったこれらの政策はその動機はともかくも、労働問題と社会保障制度整備をヨーロッパで初めて明確にするなど、ドイツ独自の「社会政策」を生み出しました。

 第二次世界大戦後、西ドイツは自らを社会的市場経済体制と規定しました。このシステムは市場を自由放任主義にまかせるのでもなく、また国家統制経済によるのでもなく、市場においては社会的要素を重視するというものです。また共同決定法という労使が互いにソーシャル・パートナーとなって「賃金協約」を結ぶという、労使対等を目指す交渉の方法が比較的良好に機能して、戦後のドイツの発展の基礎となったと思われます。従業員協議会の設置や監督委員会に従業員代表も選出されるという方式が、労働者の企業経営への参加をある程度満たしていると言えます。戦後の西ドイツの協同組合運動の中で労働者協同組合の展開がほとんど見られないのは、このような理由が大きく影響していると思われます。

 もともとドイツでは協同組合理論家のH.シュルツェ−デリッシュは生産協同組合を協同組合形式の中でもっとも優れた形態だと見なしていました。1860年代から1870年代にかけてドイツの生産協同組合は最初の発展を見ました。労働運動から作られた生産協同組合は約300を数えました。この他にもカトリック派の生産協同組合もいくつかありました。1908年にはプロシャには約3,000の生産協同組合、労働者組合員32万人の規模がありました。1920年代にはワイマール時代を含めて特に建設協同組合が多くつくられ、ピーク時には235の建設協同組合ができました。しかし、次第に市場の競争についていけず、また生産協同組合は大量生産方や新技術に対応できずに、経済的に没落していきました。

 統一前の旧東ドイツには約2,700生産協同組合、18万人の従業員がいました。1990年のドイツ統一以後は、西ドイツ法の適用を受けて1992年12月までに企業形態の転換が強制されました。また経済体制が根本的に変化したために、それらの公営型の協同組合の多くは民営化しました。一部は協同組合原則に基づいた真の労働者協同組合への転換をはかっています。その動きを表1で示しました。

表1. 旧東ドイツの生産協同組合(PGH)の転換(1991)

地域 旧PGH 株式会社・社団 その他 解散 新PGH
ロストック 152 108 27 5 12
シュバリン 87 65 5 7 10
ノイブブランデンブルグ 59 21 3 - 35
ポツダム 212 80 65 - 67
ベルリン 158 138 8 9 3
フランクフルト・オーデル 94 45 31 - 18
コットブス 89 25 0 10 54
ドレスデン 265 109 30 - 126
ケムニッツ 350 286 34 12 18
ライプチッヒ 285 180 7 25 73
ゲラ 115 79 - 15 21
ツール 59 34 - - 25
エアフルト 222 152 12 - 58
ハレ 243 79 8 3 153
マグデブルグ 263 152 6 20 85
2,653 1,661 236 106 758

(出所: PROCOOP,1992,NO.11)

真の労働者協同組合への転換へ


 この表で見ると、旧生産協同組合のうち約62パーセントが民間会社に転換しています。生産協同組合にとどまったのは758社で約28パーセントですが、これらのうち、「ドイツ生産協同組合・労働組合経営参加企業連合会(VDP)に加盟している約200企業は協同組合原則を守りながら経営をすすめる企業であるといえます。このドイツ労働者協同組合連合会(VDP)は、ドイツ熟練工審査協会(EPV)と協力をしながら、職業訓練や金融、社会保険の手続きを行なっています。 ドイツの労働者協同組合は、したがって基本的に旧東ドイツ地域の職人的な生産協同組合の転換の中からいかに真の協同組合化をしていくかに重点が置かれていると言えます。 旧東ベルリン郊外にあるドイツ労働者協同組合連合会(VDP)の事務所には、わずか3名の常勤職員しかいません。入り口にはEUの旗も一緒に旗めいていました。本部はデッサウにありベルリンは出先事務所です。VDP連合会は1990年8月に設立されました。まさに統一ドイツの新しい動きと平行しています。加盟している労働者協同組合は93年9月現在で185協同組合、12,500労働者組合員ということです。約半数が建設・工業、手工業分野であり、残り半分が商業、サービスなどでその中にはビル清掃、洗濯屋、翻訳業などもあるそうです。

 しかしながら社会サービスという分野は現在なく、伝統的に職人の労働者協同組合という性格を反映しているとおもわれました。とはいえ、若者の失業の増加や老人にたいする福祉サービスの必要に直面しており、これまでいわゆる「社会的自助グループ」などがになってきているさまざまな社会サービスの分野やエコロジイなどの分野にも労働者協同組合が作られていく可能性がおおいにあると言えますし、またヨーロッパにおけるそうした分野にとりくむ新しい労働者協同組合や社会協同組合という形態もドイツで作られることが期待されます。エコロジー問題ではとくに緑の党とも意見交換をしているとのことでした。

 VDP連合会は政党との特別なむすびつきはないようですが、どちらかといえば社会民主党(SPD)と交流があるようです。もちろんVDP連合会はロビイ活動を主たる仕事にしていますから、キリスト教民主同盟(CDU)とも接触をもっているようです。 旧東ドイツで転換しつつある新しい労働者協同組合の抱えている問題点は、労働者の高齢化対策と若者の雇用の促進をいかにバランスよく行なうか、またスターリン主義的な国営型経営スタイルを克服して、いかに民主化していくか、さらに新しい市場にどう競争力をもって参入できるかということです。 旧東ドイツ地域では失業率が高くて、公式には15%と言われますが、若者や女性については50%にも達すると言われています。同連合会で力をいれているのは、パソコンネットワークづくりと、ヨーロッパの他の労働者協同組合組織との事業協力の推進です。ヨーロッパ全体ではCECOP(ヨーロッパ労働者協同組合委員会)と、イギリスとはSEC(社会的経済連合)を通じて協力関係にあります。旧東ドイツの生産協同組合は第二次大戦後の1950年代に設立されたものが多く、それなりの歴史を持っています。大部分は先にあげたように、建設協同組合や金属工業協同組合が多く、いわゆる職人協同組合が主であると言えます。最近はソフトウエア会社なども設立されているようです。

安定経営の労働者協同組合


 ベルリンで訪問した労働者協同組合はVEP連合会会長のゾンアーベント氏が社長をしている「エレクトロバール」とい会社でした。この労働者協同組合は設立が1958年でした。当時は税制優遇があり、一般企業が86%の税率にたいして協同組合は50%だったので、協同組合設立がブームになった時期出した。同社は労働者組合員が55名、株主組合員が5名の計60名で構成されています。一人一票の協同組合原則を守っています。業種は電気設備とコンピュータソフトの開発の2部門を行なっています。自前のビルを持ち、訪問客に自社のラベルを貼った記念ワインをくれるなど、業績は順調であると見受けられました。

 統一ドイツでは旧西ドイツサイドでは、社会協同組合が「自助組織グループ」から転化して作られていく可能性がかなり高いと思われます。一方、旧東ドイツサイドでは、伝統的な工業協同組合に加えて小規模のハイテク協同組合やサービス協同組合が増えていくものと推測されます。


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