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海外論文&レポート
完全雇用のあとに何がくるか
ジェ−ムス・ロバ−トソン(英国/経済学者)
翻訳:石見 尚(日本ルネッサンス研究所) 訳者まえがき
日本はヨ−ロッパよりも10年遅れて成熟社会に入り、若者の企業への就職の意識が急激に変りつつある。また日本型経営の神話が崩れ、中高年は否応なく、自分の人生の再設計をする必要に迫られている。 11月に来日するジェ−ムス・ロバ−トソンのこの論文は、1984年のロンドン・サミットを機会に、近い将来、雇用労働に依存する経済体制が活力を失うことを予測し、「オウンワ−ク(Ownwork,自分自身の働き方)」の社会的登場の必然性と意義を説き、その組織化の推進とそのための政策を提案したものである。今日の日本の現状に照らして、16年前の予見の正しさがわかるであろう。この論文のごく最初の部分は、訳本「生命系の経済学」(御茶の水書房、1987)に収録されているが、全体は紹介されていない。 ここに本論文を新しく全訳紹介する目的は、第一に、当時、日本でも出発していたワ−カ−ズ・コ−プ(コレクティブ)の世界的意義を、日本の労働界はもちろん、国会、政府、経済界、ジャ−ナリズムなどに広く認識してもらうためである。日本でここまで発展しているワ−カ−ズ・コ−プについては、まずその貢献を社会的に認知し、法的整備をいそがなければならない時代が既にきていることを言いたい。 第二に、新しい働き方の推進には、法制化だけではなく、多面的な政策の見直しが必要になる。それがまた、日本の制度疲労した経済と社会を建て直す契機になることを主張したい。この論文は関連するオルタナティブな政策のヒントをたくさん提供している。ワ−カ−ズ・コ−プ(コレクティブ)はあたらしい政策提案をするだけの経験と資料を蓄積しているので、ワ−カ−ズ・コ−プ(コレクティブ)自身が本論文に触発されて、建設的な諸提案をするように促すのが、もうひとつの目的である。 1.はじめに イギリスでは今日(1984)、数百万人が失業している。1984年6月に開催されたG7サミット国の失業者は数千万人にのぼつている。第3世界の国々では、状況はもつと悪い。ILOの1982年の推定によると、2000年までに世界的規模で完全雇用を達成するには、10億の新規就労を見込まなければならない。ILO会長は「従来の雇用形態では、完全雇用はありえないことを良く理解しなければならない」と言う。 実際、従来型の経済専門家や政治家は、あれこれの政策によつて長期的には完全雇用を回復できると、自信なげに主張している。しかし、その主張はますますユ−トピア的な希望的観測にすぎないものになつてきている。省力技術の影響や国際貿易の圧力、さらに公共事業にたいする納税者の拒否感の強まりによつて、経済成長は望ましい点があるとしても、失業の残る成長になる可能性が次第に明らかになつてきた。 現在の雇用労働は、奴隷時代の奴隷労働がそうであつたように、不経済なやり方で重要な仕事をさせるものとなつている可能性を無視できない。眼の前に長期にわたる高い水準の失業がある上に、完全雇用はもはやもどつて来ないと見るほうが、現実的で責任感のある見透しであろう。現実的で責任感のある指導者ならば、この事態を考慮して行動しなければならない。 その正しい政策とは実際的であると同時にヴィジョンのあるものでなければならない。いま必要なのは、将来も失業が続きそうな事態に直面している幾百万の人々を安心させる実際的な行動である。職業倫理を宣伝し基礎所得と仕事とのリンクを言つてはいるが、幾百万の人々を失業状態においている社会は、その人々と社会自体を傷つけているのである。実際的行動はまた同時に将来展望を与えるものでなければならない。すなわち失業の当面の問題を解決する方策は、従来の雇用形態とは異なる働き方を組織する方策の一段階でなければならないのである。 公式の経済サミットは責任のある実際的な指針、換言すれば高い失業率と将来の労働についての世界的規模の問題を効果的に解決する現実的な政策とヴィジョンを提供できそう にもない。「もうひとつの経済サミット」(TOES)の目的の一つは、これを正すことである。この論文はそれに貢献することを目的にしている。 2.将来の3つの働き方 将来の働き方については3つの異なる見方がある。第1の働き方のキ−ワ−ドは「雇用される労働」である。第2の働き方のキ−ワ−ドは「余暇としての労働」である。第3のそれのキ−ワ−ドは、「自分の労働」(Ownwork)である。 「平常どうりの営業」(Business As Usual)観に立つと、雇用労働は普通の働き方として続くであろうし、現金収入は雇われて稼ぐということになる。雇用労働の形態はすべての先進工業国で工業化時代から組織され、所得を支給する方式であつた。この考え方は左右両翼、中道派の間で今日なお続いている旧来の論争にも反映している。その論点は完全雇用が復活するか否かではなく、いかにして完全雇用を復活するかにある。それは先進工業国では労働時間を短縮し、製造業部門の雇用を情報、知識、サ−ビス部門が求める職務に移すことができるという前提に立つている。驚くにあたらないことだが、学界にこの見解を支持する者が多いのは、教育は将来の雇用の成長部門の一つと考えているからである。さらに希望的観測として、先進国の完全雇用と経済成長の復活は第3世界のための市場を拡大し、第3世界の雇用機会を拡大するという考え方がある。「平常どうりの営業」観に立つて、将来の労働も雇用形態が続くという見方は第一ブラント報告にもあつて、世界の経済問題を南北の相互利益になる形で解決する提案の土台になつている。 第2の見解はポスト工業社会についての超成長論者(Hyperexpansionist--HE)のビジョンに基づいている。HEのビジョンでは、工業化時代を通じた発展傾向は、これからも強化され加速すると見るのである。技能の優劣差、中核労働者と周辺労働者の差は拡大して、少数の市民の雇用だけで済むようになるというのである。少数の市民は高度の技能をもち、責任の重い仕事に就き、尊敬され、エリ−ト・テクノクラ−トとして高給を取り、オ−トメ工場を運営し、宇宙ステ−ションを軌道にいれ、知識の最前線で研究活動を行ない、自動化れた金融、通信、教育、保健、福祉サ−ビスを運営するために雇用される。その他の人間はやり甲斐のある有用な仕事がなく、「余暇」の生活をおくることになる。典型的な前期工業社会と対比すると、少数の卓越した雇用主と多数の低劣な雇われ者とへの分裂は、いわゆる余暇社会では、卓越した少数の労働者と低劣な多数の怠け者への分解ということになる。この見解は第3世界の将来の労働については、言及していない。 将来の労働の第3の見方は、ポスト工業社会についての別のビジョンンの一部であるが、新しい発展傾向に着目して、工業時代の傾向が継続するとか加速するとは考えない。この案は健全(Sane)、人間的(Humane),エコロジ−的(Ecological),つまり略称、SHEビジョンというもので、工業時代よりも、人間的成長、社会正義、エコロジ−の持続可能な発展に高い優先順位をおくものである。 現在の工業国にかんしては、社会の分権化が進み、次の社会では自分のために役立ちやり甲斐のある仕事を選ぶ人が増えて来ると予想する。働く人と余暇生活をおくる人とへの分解が進むことなく、多くの人々にとつては労働と余暇が一つになるのである。専門家がすべてを取り仕切る超サ−ビス社会になるのではなく、自助と共助の社会に移行し、自分の労働と生活を自分の意志で行なう人が増えてくる。工業化初期の時代の技術発展には中央集権化を促す傾向があつたから、自分自身の仕事を管理する能力を奪われ、経済自給の地域自立性を奪われた人が多く出たが、現在の技術の発展はそれとは異なる方向に向かつている。エネルギ−、食糧生産、調理、情報技術(パソコンなど)、建築、配管、装飾、電気工事、家具、衣料部門では−−ハ−ドウエア部門でさえ小型で安価な多機能のロボットを装備し−−技術が進み小型化したので、生産的な労働を家庭や近所に持ち帰り、地域での労働を地域の大抵のニ−ズに合わせることができるようになつている。ポスト工業社会は雇用社会や余暇社会ではなく、「自分の仕事」をする社会となるであろう。 第3世界の国々については、中央集権的な「浸透」("trickle-down")発展(先進国の発展が低開発国の発展を促し平等化が進む)戦略が進まず、フォ−マル経済での完全雇用 の達成のユ−トピア的な希望とは「異なる道」になると、SHEビジョンでは予想する。「異なる道」とは、地域の民衆が内発的発展の能力を身に付けること、経済的自立を促すこと、商品輸出と商業的作物への依存を減らすことを最優先するものである。第3世界では先進工業国と同様に、将来の労働の基本的な形は、民衆自身が管理できる小規模技術の採用を増やしていくことが特徴になる。 SHEビジヨンの予測によれば、先進工業国でも第3世界でも、あらゆるレベル−−家庭、地域、地方、国−−で、経済自立の拡充を目指す発展方向が強まることになる。国際経済にかんしては、従前の労働の国際分業の深まり、主食やエネルギ−のような基本物資の国際的依存の進展の方向とは逆方向になるのである。SHE案に賛成する人たちは、この流れには、さらに国際的緊張や将来の紛争を減らす利点があると考える。 3.新しい政策への取り組み 将来の働き方にかんして想定される3つの姿のうち、どれが最善であるかと言うよりは、どれが現実的であるかを考えると、実際の労働には3つのすべての要素が含まれると言うのが現実的な答えであろう。ある程度、労働は雇用の形で組織され、現金収入は雇用と結びついた稼ぎとなるであろう。ある程度、労働の技能格差の拡大、余暇の一般的な増加、職業と収入の関連の弱まり傾向は続くであろう。そしてある程度、地域経済は復活し、自営する仕事が増加し、労働と余暇の区別は曖昧になるであろう。将来の労働と失業問題への取り組みが現実的なものとなるには、これらの要素を全て考慮しなければならない。次に、それを確実に実施する一連の政策を要約することにしよう。 しかしながら、3つの働き方のうちどれがもっとも希望のある働き方と云うと、第3の働き方、すなわち自分の労働を中心とした働き方であるSHE案を重視しなければならない。この方向に進めば、仕事がないのにすべての人に働らけと説教する「平常どうりの営業」社会の悲劇を回避し、また優れたエリ−ト労働者が「ダメな怠け者」大衆を支配するHE社会の弊害を避けることができる。そのうえ、将来の働き方の実際の姿は、SHE案に近いものとなると見るのが安全な予測である。これは一部、負の理由からであるが、組織労働と賃金所得と福利厚生の給付による、現在の中央集権的な雇用ベ−スの道は崩壊し始めている。「平常どうりの営業」とHE案はこれにたいしてどのような救済策を提供できるかが分らないのである。その反対に、SHE案にはそれを支持する積極的な理由がある。その一つは、すでに述べたように、技術の新しい分野がSHE案の方に進んでいるし、民衆の価値観もこの方向に変化していることである。 次図の4つの経済セクタ−を見れば、家族と地域のレベルの経済の回復が工業国に明るい見透しを与えることがわかるであろう。 図 経済の4部門
第1セクタ−(資本集約、自動制御、大量生産部門)の雇用は減少傾向にある。この部門の事業が国際競争下にある場合には、生産性の向上を続行しなければならない−これはこの部門の雇用が低落傾向を続けることを意味している。国際競争下にない場合には、その部門自体で雇用がさらに減る事態を表わしている。 第2セクタ−(大規模サ−ビス部門)の雇用も増えるよりは、やはり減ると思われる。5〜10年以内に金融事業で進むオフィス・オ−トメ−ションや構造改革によつて、銀行、保険、商業部門では雇用が減り、公的予算の削減によつて、教育、保健のような国家の公共サ−ビスの増員ができなくなる。 第3と4のセクタ−(地域と家族の部門)は仕事が潜在的に成長する分野として残る。これらの部門の新しい仕事によつて、小企業での在来型の雇用が増えれば、医師、弁護士などの専門職の集団や商人などの自営業の仕事が増えるであろう。それはまたコミュニティ・ビジネスやコミュニティ組合のような地域活動や地域企業全体の発展を呼ぶことになる。その場合でも、コミュニティ・ビジネスやコミュニティ組合というものは、企業として成り立たなければならないが、常識的に言つて地域経済を独占するおそれはない。これと同様に、家庭や生活班の自家消費によつて物資とサ−ビスの自給生産が増える。換言すれば、後述するインフォ−マルな経済が大きくなるのである。 地域や家計部門の有用労働が拡大すれば、第1、第2セクタ−の大規模組織による雇用労働への依存が減るし、また物資やサ−ビスの面でもそれらの大企業や公共支出への依存が減ることになる。この依存が減少することは、二重の意義がある。第1に、現在、地域経済と家庭経済は、自分たちの手の及ばない雇用組織や社会福祉団体から見放された結果として失業や不況に見舞われているのであるが、これからは自分たちの地域や家族の福祉に直接かかわることができるようになる。第2に、地域や家族が日常的な労働とサ−ビスを自ら賄うことができるようになるので、第1、第2セクタ−の組織はいままで地域や家庭に提供していたその労働とサ−ビスから解放され、自分たちの固有の分野で効率をあげることができるようになる。このことは、国際経済市場で競争している企業にも、また自助や共助ではできないハイテク医療サ−ビスのような面倒な社会サ−ビスに従事している団体についてもあてはまることである。換言すれば、地域経済と家族(とそれに貢献する労働)の再生は、間接的ではあるが、国民経済と福祉国家の大規模な組織のさらなる発展にも基本的に貢献し、経済全体の効率と国際競争力を向上させる戦略にも貢献することになるのである。既成の思想に捕われた経済・政治学派は、このことがわかつていない。この論文で最も力説したいのはこの一点である。次に所得の問題に移りたい。 4.一連の政策づくり この節では、このために必要な一連の政策づくりを例示しよう。さしずめ工業国の場合について述べよう。 収入 先進工業国では、大抵、市民が生計を維持するに足る所得の保障を義務づけている。しかしこの収入の確保は、通常、雇用の対価として支給されるという建て前になつている。失業手当や社会保障手当の形で国から所得を給付される人々は、不運な例外として取り扱われている。したがつて、これらの手当はほとんどの場合、受給者には研修やボランティアの仕事のような有用な活動に参加する自由を厳しく制限するという条件が付いている(万一雇用の機会があつたとき、就業の機会を失うという理由で)。この制度は人々が独力で賃労働に復帰しようとする意欲を著しく損なつている。この建て前は「雇用機会のない者は働くな」というに等しい。 今後10〜15年間、高い失業水準が続き、完全雇用が回復する可能性がまったくないことを考慮すれば、この建て前は時代おくれと言わなければならない。手当の受給者が有用に時間を使い、自分で新しい収入源を見つけることを禁止しないように、制度の改革を今こそしなければならない。すでにこのために、若干の試みが部分的になされているが、弥縫策にすぎない。この問題の解決には、個人課税と社会保障手当を合理化して、「基礎所得の支給」にすることが必要になる。ちなみに「基礎所得の支給」というのは、すべての市民に非課税の生活維持費を国から受給する資格を与え、足りない部分は市民が選んだ他の収入源から補う自由を認めるという政策である。この構想は、専従的雇用労働から兼業的雇用労働、兼業的無償ボランティア労働、そして専従的無償ボランティア労働まで、人生の段階に応じて働き方を変えることができるように、各人にたいし労働と余暇の選択を柔軟に組み合わせる道を拓くであろう。 「基礎所得の支給」または「基礎所得の保障」は一石二鳥、三鳥の効果をあげるであろう。第1は、社会的見地から、失業中の人や社会保障を受けている人にたいする社会的偏見を解消することである。これらの人々は他の市民と同じく国から保障された基礎所得を受給するだけである。それはまた、手当受給者が収入を稼いだり立ち直ろうとする意欲を失わせているいわゆる「居座り貧乏」をなくするであろう。第2は、経済の見地から、基礎所得の保障によつて、雇用主が支払う賃金・給与のうち生活維持費分が別建てとなるので、労働市場における自由選択の可能性がひろがり、国民経済の中に競争が生まれる。第3は、より広い社会経済的な見地から、基礎所得の保障によつて、多くの人々が地域のボランティア活動やボランティアに準ずる活動に参加しやすくなるので、自分自身や家族や仲間の福祉やアメニティに貢献し、福祉国家への依存を減らすことができることである。 投資、資本と土地 完全雇用政策の時代には、雇用主が宅地、屋敷、備品、その他労働者の必要とする資本財を提供することが建て前になつてきた。雇用主団体が就業機会を創出したり維持できるようにするために、価格下落の補償金のほかに投資補助金やその他の融資助成金が交付されている。これらの形態の支援や刺激策は雇用による労働を優遇し、その他の働き方を差別するもので、自営業や地域零細企業の復活をいくらか妨害している。これらの支援策を自営業や地域の零細企業の生産的投資に拡大するよりも、むしろ全部一緒に廃止すべきである。廃止によつて受ける損失よりも、基礎所得の支給制度があれば、雇用主がその導入によつて受ける利益のほうが大きいであろう。 民衆が選択する地域の零細事業への融資は、中央集権的な金融機関が取り扱わないのだから、庶民の貯金をこれらへの投資に回す新しい機構や制度が必要となるであろう。実際、OECDのような組織は地域で雇用を創出する新規事業への金融の必要性に着目し始めている。資金がなく低所得の庶民が自分たちの「汗の結晶としての所有権」(Sweat Equity)(訳注 廃屋に入居した者が自分で修理し、一定期間居住するとその人に所有権が移る制度)を勝ち取る新しい道−−たとえば持ち家を建てたり、新しいコミュニティを作つたりできる方策を作り出さなければならない。イギリスには現在このような構想としてテルフォ−ド・ニュ−タウンのライトム−ア・プロジェクトとミルトン・ケインズのグリ−ンタウン・プロジェクトの二つがある。 このようなプロジェクトについては、コミュニティ土地トラストとコミュニティ開発トラストによる宅地保有などの新しい形の借地方式を作る必要がある。もっと一般的に言うと、働くための土地を必要とする庶民や地場企業が、自前の土地を入手できる方法を見つけなければならない。 都市計画・住宅建設・地域開発 現行の都市計画、住宅建設、地域開発政策は、雇用主の所有する財産によつて雇用主が仕事をさせる建て前になつている。そのため都市計画では、働く者が自分の家の中などで仕事をしないように、住居を生産目的に改造することを規制している。建築家は消費生活や余暇用の家を設計するけれども、生産的労働をするスペ−スは設けることはしない。地域開発政策では、地域住民がその地域で「自分の労働」をするのではなく、外部から雇用主をその地区に誘致するので、強靱な地域がいつまでも形成できなくなつている。庶民が自分の家で自分の地域で自分たち自身の労働ができることを優先するべきである。 雇用政策 従業員が仕事や職場づくりの点で雇用主団体に依存しなくても済むようにしなければならない。たとえば、余剰人員が自分たちで事業おこしができるとか、元専従者を一定期間契約社員として雇い、顧客の仕事を見けて最終的に自立できるようになるとか、余剰人員や定年退職者がボランティア活動に参加できるようにすることである。ワ−クシェアリングや兼業機会を男女従業員に与え、有償労働と無償労働にあわせて就くことができるようにする。イギリスにはこのすべての事例がある。小規模企業での例はすくないけれども。 余暇 完全雇用の社会では、労働と余暇は、厳然と区別されいている。人間は働いていない時だけレジャ−をとることができ、消費者はレジャ−用品やレジャ−・サ−ビスをレジャ−企業から購入するか、公的予算で提供されるという仮定ができあがつている。したがつて、余暇社会に賛成の人は、雇用されない人の数が増加すればレジャ−の施設やサ−ビスにたいする要求が増えると言う。 しかし、レジャ−産業やサ−ビスが手放しに発展するというのは、一部幻想的である。積極的に有用なレジャ−活動(ボランティア活動をする)や積極的に出費を節約するレジャ−活動(自家野菜の栽培や日曜大工をして家を修理する)、実際に金になるようなレジャ−活動ができるようにすることが力説されなければならない。換言すると、レジャ−が仕事と余暇の両方を含んだ有用で生産的な活動になるように、広範囲にわたる新しい政策が立案されなければならないのである。 教育と研修 オ−ソドックスな意見として、教育と研修によつて職が身に付くようにしなければならないと言われる。たとえば、イギリスで近年おこなわれている重要な新しい事業は、「若者研修」、「労働体験」、「能力教育」であるが、それらはすべて良い雇用労働者を作るための教育、研修、体験である。 これはかならずしも望ましいものではない。雇用の将来展望に立つと、力点をおかなければならないのは、雇用されなくても生活ができ、生産的なレジャ−ができ、また有用で生き甲斐のある仕事を自分で創ることができるような多様な実技の教育研修でなければならない。「自己実現のための教育」、または「自立のための協同の教育」こそが何が必要かを教えるのである。 保健と福祉 雇用労働から自分の労働と余暇への移行にともない、また地域・家庭部門の経済活動の復活とともに、保健と福祉が必要になつてくる。 多くの先進工業国の例によると、従来の福祉国家はもはや行き詰まりに来ていると思われる。健康の心理的要素を考慮したいわゆる「オルタナティブな」治療など、自助と共助に注目した治療と介護に重点を置かなければならない。病気の治療や悪化してしまつた社会問題の改善など後追い措置ではなく、人々が健康で安心して暮らすことのできる心身の状態を造り出す方向に切り替えなければならない。 保健政策と社会政策の切り替えは、脱雇用の労働形態への移行とそれと同時に進行する地域と家族の活動の復活によつて、直接的に促進されるのである。 製品、原料、テクノロジ− 地域と家族の部門(インフォ−マル経済を含む)が復興し始めると、販路がひろがるので、小企業の新しい技術が広範囲に発達し普及しはじめる。経営コンサル、金融マン、商工企業家がまずこの分野に入り込み、その他の目覚めた者があとを追う。そして関係省庁や研究機関、公共団体が潜在需要を調べて、必要な技術革新を推進することになる。 国際的意味 これまで述べた主導的な政策が直接的に影響を及ぼす範囲は、主として国内雇用の形態と国内経済に限られていた。しかし自立的な国内経済づくりが進み、第3世界の搾取が減ると、第3世界が取り組む経済自立の条件づくりを支援することにもなる。事実、これはかつて先進工業国が第3世界にたいして従来型の貿易と援助で進めたよりも、第3世界の発展に積極的に貢献することになる。あらゆる分野で工業国の最新の小規模技術が利用可能になるからである。これらの技術は工業国内で一般用に開発されたものであるが、第3世界では在来の開発政策にはなかつた規模の技術として活用されるようになる。 補足 この論文はTOESのために書いたので、政府が検討すべき政策転換に重点を置いている。 ここで重要なことは、脱雇用時代を特徴づける新しい労働形態は、基本的に政府によつては創造できないということである。新しい労働の形態は民衆のエネルギによつて生まれ、民衆自身の事情とニ−ズと価値観に応じて作られるのである。 政府の役割は重要であるが、政府の役割は主として促進ないし障害の除去にあるのである。たとえば失業者にたいする所得の給付がそうであり、都市計画や住宅政策、地域開発政策について言うと、現状では人々が生産的で有用な仕事をしようにもできないため、やむをえず、その結果として、雇用労働に依存していることの背景にある政策が対象になる。政府の仕事とは、民衆に権限を与え、民衆が依存を脱皮し、現在よりも事業を起こしやすくし、経済と福祉の向上を自力でできる新しい機会と責任を持たせるようにすることである。 5.労働の属性−再検討 雇用の時代には、労働のある種の属性は当たり前と考えらてきた。しかし現在は再検討しなければならない。 依存的な活動としての労働 雇用が労働組織の普通の形態となつたのは、一般民衆が土地から追い出された時代である。たとえば、イギリスでは17〜18世紀の土地の「囲い込み」によつてである。当時、「囲い込み」は一般民衆の経済的自立の機会を奪い、かれらが賃労働に依存し、雇主のために労働をするようにしたことは、良く知られていた。「これによつて社会の下層階級の従属を大いに確保しよう」としたのである。 工場制度の導入は労働者から自治を奪い取つた。たとえば、18世紀初期の織物職人は、貧乏ではあつたが、自分の仕事に責任を持ち、他の家族と協調しながら、話をしたり、歌つたり、自分たちできめた時間に食事をしたりして、すくなくとも家族集団で働いていた。工場の規則はその全てを禁止した。 それ以来、科学的管理は仕事場での従業員の自治を制限することを目指して発達してきたと言われる。そしていまでは、疑なく、大抵の人々が仕事を提供する雇用主への依存を当然のことと考えているようである。18世紀の庶民たちは賃金労働者になることに反対して抗議をしたり暴動をおこしたりしたのであつたが、20世紀の労働組合は雇用に依存する権利のために抗議やストライキをしている。 リモ−ト・コントロル下の活動としての労働 雇用時代に個人も家族も自身の労働を管理できなくなつたように、都市も地区も地域も自分を管理する力を失つた。先進工業国でも第3世界でも、現場労働者は他でなされた決定に従つて動いている。個人も家族も他人が作つた製品やサ−ビスを買うための金稼ぎに依存するようになつが、それと同様のことが、地域でもおこなわれている。世界中の市町村が弱体化しているのは、地域経済の自給自足が失われた結果で、個人レベルでも失業すれば経済的に自立ができなくなり弱体化するのと同じである。 専門化した活動としての労働 200年前にアダム・スミスが「国富論」を書いて以来、専門化は経済の進歩を意味するものとして尊敬されてきた。市町村や地域は炭鉱、製鉄、造船、果樹栽培、コ−ヒ−栽培、漁業、観光、ガラス製造など、さまざまに専門分化している。職種は何であれ、専門家とか専門化した地域は、自分の管理できない経済の変化に弱くなつている。この脆弱性は現在の世界の経済的、社会的問題の基本的特徴である。この現象は先進工業国だけではなく、第3世界でも同じで、その被害はいっそう大きい。 人や地域にとつても、経済の専門特化は限度を越えないにしても、すでに限界に達している。専門化の費用と便益を自給自足のそれと比較すれると、現在では後者のほうが有利になる傾向がある。 道具化した活動としての労働 工業化社会の発展につれて、労働は個性がなくなり、労働の目的は庶民の生活から遊離してしまった。 そのひとつの原因は、初期工業化時代の典型的な技術が分業の発達を要求したことであつた。分業は大規模な組織に適していた。それは家内労働を工場に連れ出し、小工場を整理して大工場に置き換えた。そして鉄道交通と道路輸送によつて、長距離通勤が次第にを可能になった。そしてついに後期工業社会になると、労働者大衆は家庭や家族、隣近所、また友人、居住地域と関係のない場所でまた関係のない目的のために、労働生活のエネルギ−を使い果たすことを承諾するようになった。労働は補助手段化し、本来の目的を失なつてしまつた。 雇用労働が道具化した結果、労働者は自分の労働成果に3つの点で責任感を持たなくなつた。3つの点とは、労働を通じて自分自身が成長すること、他の人の為になること、自然環境をよくすることである。工業化時代の支配的な経済思想は、個人の成長のニ−ズ、社会的公正、エコロジ−にたいして無関心であつたので、支配的な労働形態(雇用)からはこれらの要件が除外されてしまつた。 フォ−マルな活動としての労働 工業化以前の祖先は、市場経済がないところでは、財やサ−ビスを自給または交換するために働いていた。しかしわれわれの時代には、賃金労働者として顧客のために働いている。換言すると、労働はインフォ−マル(実質的な)経済からフォ−マル(形式的な)経済に移行したのである。公式化の過程はあらゆる分野に貫徹しているので、政治家、経済専門家、事業家、労働組合指導者、その他、多くの人々は、雇用形態をとる労働と金銭による取引形態が行なわれるフォ−マル経済が唯一の経済の形と見なしている。 したがつて生産額を表示するには、GDPやGNPのように、フォ−マル経済の貨幣取引額によつて示される。これは投下労働の金額で計られ、働く人の数は雇用労働に従事する人数で計ることになる。過去の経済進歩と将来の経済事業の目標としてのGDP,GNPの欠点は、既によく知られるところである。労働については、有償労働は積極的価値があつて、無償労働は価値がないという誤解である。たとえば、すべての人が食事を家庭ではなくレストランでしたとしても、これが生活水準や生活の質の向上を意味するものではないのであるが、統計では後者の投下労働が大きい価値を表示することになる。 国民の経済的、社会的活動の評価は経済専門家や会計士や統計官でなければできないという常識は、工業化時代にいろいろの分野でおこなわれてきた型どうりのいわゆる「デカルト」的考えによるものである。しかし、この数年間、計量化される現象だけが重要であるというこの認識方法の恣意性と不合理性は、医学や科学の分野で批判され始めた。これと軌を一つにして、この数年、われわれの実際生活は、インフォ−マル経済とフォ−マル経済との二重経済で行なわれること、フォ−マル経済以外に自分と他人のためにすることに意義があること、また将来、インフォ−マル部門の活動が経済的社会的進歩と労働にとつてもつとも重要で発展する分野であることを悟る人が増えてきた。 男性の活動としての労働 雇用形態の普及とともに、男性の仕事と女性の仕事の亀裂が深まつた。雇用が19世紀と20世紀の労働の支配的な形態になつたので、父親は外で働き、母親は家庭で主婦業の専念することになつた。生活のなかで金銭の力が大きくなるにつれて、賃金を持ち帰る男性の労働のが女性の無報酬労働よりも地位が上になつた。その結果、女性から雇用の男女平等の主張が出てきて、現在では有償労働にかんしては女性にたいする公正な扱いがなされるようになつた。しかし男女平等はまだ不十分で、大抵の男性にとつては無償の家事・育児労働を公正に分担することは気の重い不得意な仕事である。真に重要な仕事は賃金を支払う雇用主の仕事であるという考えがまかり通り、実際それが優先するのである。 工場、事務所、そのほか労働機関で高い地位にある人々の多くは一般に男性であるが、この人たちは身近に必要な仕事はしていない。それとは対照的に、女性は家庭の典型的な無償労働である育児、炊事、裁縫、高齢者・病人の介護、子供の教育、家の雑事をしている。これは矛盾である。工業時代の男性の仕事は抽象的で没個性的で組織的なものである。たとえば工場の運営、事務所の文書、銀行の資金、大学の研究がそれにあたる。これに対し、女性の労働は具体的な目的をもち、人間に関係したもの、基本的な人間のニ−ズに関係のあるものである。 次の3つの要素によつて、男女の地位が逆転しつつある。第1は、多くの工業国での意向調査によれば、男性の価値よりも女性の価値のほうが高くなつていることである。工業化された現在の生活様式の危機は、男性の価値の危機であるという考えが広まつている。第2は、肉体的強靱性のゆえにこれまで男性が行なつてきた肉体労働を機械がするようになつたことである。第3は、将来の普通の労働については、男性が従事してきた継続的なフルタイム雇用がモデルとなるのではなく、女性が行なつているように、パ−ト・タイムの雇用労働、家事労働、ボランティア労働、フル・タイムの雇用労働を交替で行なうフレキシブルな混合型のものになることである。 疎外された活動としての労働 雇用労働が他の形態の労働よりも優勢になるにつれて、労働の地位が低下するのは女性層だけではない。定年退職者たちは社会に役立つ人生は終わつたと思うし、労働市場に参入する資格のない未成年者は、社会に貢献できないと感じ、失業者は社会から除け者にされていると思う。高齢者、若者、失業者のいずれも、役に立つインフォ−マルな労働に携さわることもできない。労働者は雇用か、転落かの二者択一迫まられる。雇用されるか、失職するか。経済に貢献するのは雇用労働で、雇用労働から外されれば、他の労働者に負担をかける負い目を背負うことになる。 経済学にとつての意味 雇用労働にまつわる依存、リモ−ト・コントロル、専門分化、労働の道具化、労働のフォ−マル化、男性偏重、疎外などの属性によつて、経済、社会、個人は深刻な衰弱に陥る。この論文の前段で述べた新しい政策が奨励するのは、依存からの脱却、個人と地域の自主管理、多能工化、各自目標を持つこと、インフォ−マル経済の重視、男女の価値の平等化、すべての人に有用な仕事に就く機会を保障する包容力を備えた新しい労働形態である。 雇用とは異なる新しい労働形態の普及は、思考のシステムである経済学にとつてどんな意味があるか。 実際、経済学の時代は雇用時代と一致していた。過去わずか200年の間に、雇用は労働の主要な形態となり、ついに完全雇用(希望者全員に雇用を提供する)は政府の政策目標になつた。同様に、わずか200年の間に、経済学は人間問題を理解し管理する方法となり、経済政策は政府の中心的政策となった。雇用の時代が終わろうとしているとき、これは経済学に何を意味するであろうか。 たとえば、個人レベルでは、経済学は有償労働、インフォ−マルな家庭と家族の労働、ボランティア労働、余暇活動などの各種の組み合わせのコスト・ベネフィットを評価する学問になるであろうか。地域レベルでは、地域経済が外部の国家や国際経済に依存する場合と比較して、自給度(すなち地域の労働を用いて地域のニ−ズに見合う財とサ−ビスの生産)を変えるときのコスト・ベネフィットの評価に役立つものになるであろうか。 そのほかにも、既成の経済学が無視してきた各種の労働とそれに関連した人間活動の価値について、いくつものの研究事項が発生してくる。経済学は、雇用労働の支配的な工業時代の価値を反映した短期の予測と投機の手段になつてしまうかどうかが問題である。また、経済専門家が真の人間(ホモ・エコノミカスとしての人間ではなく)の広範なニ−ズと活動を反映する選択の原理を、社会的公正と持続可能なエコシステムの考察とともに、開発することができるかどうかが問題なのである。 |