|
||
特集:労協法制定を今こそ(8)
再び、“筑豊の復興”を目指して闘う、
新しい協同の建設 入江喜代治(社会福祉法人『すみれ育成会』理事長)
筑豊とは、福岡県の内陸部を占める地域であって、旧い呼び名で言う、筑前の国4郡(遠賀郡・鞍手郡・嘉麻郡・穂波郡)と旧豊前の国1郡(小倉藩田川郡と周辺諸郡)すなわち、旧筑前国と旧豊前国を包含した地域名を言い、この二つの国にまたがり、このふたつの国が、古く(天保年間1830年〜)から石炭の主産地として栄え、炭鉱を中心にして地域社会が形成され、産炭地【筑豊】とも呼ばれ別名で筑豊炭田とも呼称されている。
その一方での筑豊は、県の中央部に位置して南北に貫流する遠賀川の流域に広く水田耕作が、弥生前期の古からされていて、その生活体系の証として遠賀川の河床から有名な『遠賀川土器(西暦前200年〜300年縄文後期)』などが出土している。 筑豊農業について、福岡県飯塚農林事務所が平成3年3月に発行した筑豊農業圏農業計画による筑豊農業圏概要によれば、立地条件としての筑豊は、直鞍(直方と鞍手郡)・嘉飯山(嘉麻郡・穂波郡・飯塚地区)・田川の3地域4市20町1村からからなり、西南に3郡山系、東北に福智山系、南東に英彦山系、西に犬鳴山系に囲まれた盆地である。中央には、遠賀川が貫流しその支流に穂波川、八木山川、英彦山川、中元寺川等がそれぞれに流れ、支流にそって山間、山麓及び平坦部に耕地が分布している。 土地利用では、総土地面積が984ku(9万8,400ha)、このうち耕地面積は、1万4,400ha(14.%)、水田面積は、1万2,300ha(12.5%)となっている。 農業振興地域の指定では、全市町村が県の指定を受けていて【筑豊】は、こうした農産業の面でも福岡県のコメどころ、食の安全を確保するところとして古から培われ発展してきた地域でもある。その種類は幅広く水稲、麦類、大豆、野菜、果樹、花き、酪農、肉用牛、豚、鶏、鶏卵・ブロイラ−等の加工なども含めての農産業がされてきている。 さらに、こうした古からの農耕の伝統遺産に田川地域では、『歳時暦』や伊加利人形浄瑠璃・仕事唄 (田植え唄、米搗き唄、麦搗き唄、糸取り唄、草刈り馬子唄など数限りなく)の踊や舞いなどが創られ伝えられている。また、田川から筑前国嘉麻郡村(現在の山田市)へ通じる豊前と筑前との経済交流の窓口として宿場町(現在は、田川市猪膝町)があり、この宿場で、当初は農商工器具などの生産販売がされていた。 炭鉱が付近に開抗されるにつれ、石炭採掘器具などの鍛治職が多くなっている様子が町絵図の中に書き込まれてる。また、農閑期には農民の炭鉱への出稼ぎが年毎に増えていることなども田川市史、明治初期猪膝町生業人口、(明治4年「猪膝町戸籍人口下調」写し)により、記述されていてこの時期には、炭鉱の出現にともない田川地域は、農業を主体にしながらも農商鉱工の生産関係が発展してきている。 石炭が、家庭撚料としての焚石から(筑前風土記(貝原益軒,元禄16年[1703年])民家での石炭の利用、鍛治用、製塩などへの活用が広がり商品化へと発展し、石炭市場の拡大にともない、石炭掘採による鉱害もまた大きく広がり、農地等に多大な不能田を作りだした。 この時から、石炭資本に対しての生存権を賭けた農民の闘いが始まり、その闘いの歴史が日本近代史のなかにあることを忘れることはできない。 石炭の採掘が、明治政府の出現により、太政官布告をもって鉱物はすべて国有となり明治政府の下で明治6年に「日本抗法…後の鉱業法 ※賠償規定はない。」がつくられ、借区制度(鉱物を掘採する面積を示す鉱区)によって出願をもって石炭及び鉱物の採掘は、自由(明治6年,1873年)となる。この時から明治25年3月に農商務省が公布した、鉱業条例(47条・50条の賠償条項)ができるまで、石炭を掘採して、農地などにどれだけの被害を与えても賠償や現状に回復するなどの必要が無く、し放題にあった。この時から農民は、生存をかけての斗いが、賠償法Y復旧法の制定へ向けてはじまり、大資本と癒着する封建的天皇制政府をして明治25年に鉱業条例細則Y明治38年には鉱業法をつくらせたが、法律の賠償条項は、過失責任性をとっていて、地下での加害証拠の立証が難しく敗訴を余儀なくさせられている。この敗北のなかで農民は学び、そして、その闘いは組織化され政治斗争化へ発展し、政府は戦時下において、昭和14年(1939年)、鉱業法の改正を民法上の過失責任から「ひろい範囲にわたる無過失責任」にし、鉱業権者に対してのその責任を負わす“記念碑”ともいえるはかりしえない壮挙をなしあげたのである。この改正の成果は、戦後の新鉱業法(1950年12月)に受継がれ、更に、「新鉱業法」から石炭だけを引出し、昭和27年8月に、国土の復旧と民政の安定を目的にした「臨時石炭鉱害復旧措置法」を制定させる成功を1873年から1952年まで、実に、72年間をかけた斗いの集積によってなし揚げたのである。 いま、所謂『石炭六法』の時限である2002年3月末をもって、これら多くの残存課題を残し終わろうとしている。“これでよいのだろうか”? 正に、日本近代史における石炭採掘の歴史は、日本コンツェルンと癒着した歴代政府と、農民の生死与奪をかけた階級斗争の歴史である。※入江喜代治著作 石炭鉱害一問一答 1995年 第3章46問Y48問を参照。 1.筑豊の復興を、炭鉱に代わる『農産業の開発』と地域福祉社会の建設で イ.1960年6月、「日米安保条約」の自然成立により、日米経済協力の第2条に従 って日本で唯一のエネルギ資源である石炭がスクラップ化されることになった。 政府は、石炭の合理化(1955年:昭和30年石炭鉱業合理化臨時措置法)のスクラップアンドビルド政策に より、その都度、炭鉱の非能率抗を合理化閉山させ、その対応として、1959年に 炭鉱離職者臨時措置法を設け、雇用対策として、制度的就労対策事業を設置し、63年に緊急就労対策事業を設けた。 更に政府は、こうした石炭のスクラップ政策を推し進めていくなかで、産炭地域の疲弊対策として、安保条約成立の翌年の61年に「産炭地域振興臨時措置法」を制定した。この法律に基づいて現在の政治区分としての【筑豊】は、直鞍地域・嘉飯山地域・田川地域の三地域を一つにした呼び名でされていて、政府が実施している産炭地域政策として決めている6条地域の指定にもとづいた政策区分は、筑豊東・中(田川市郡及び宝球山村・直方市、中間市、遠賀郡、鞍手郡)…筑豊西(嘉飯山地区、粕屋郡、福岡市、玄海町)の二つに分けて行なわれている。その政策的指定地域は、産炭地域振興法によって、6条地域、(石炭の産出地域を言い、全国102市町村,九州69市町村に対して、地方税の減免、臨時交付金、企業融資条件の優遇などをきめている。)その他の石炭産出地域周辺の地域には、2条地域、10条地域の法的指定を行ない、地方公共団体が行なう公共事業など国庫補助率等の引き上げなどの優遇措置をしている。 ロ.1968年以降の石炭スクラップ政策のもとでの【筑豊】 「日米経済協力」により、吾が国唯一のエネルギ−資源である石炭をスクラップするという危険な日本政策は、政府の諮問機関である石炭鉱業審議会を通じて1968 年に第4次石炭答申を出させ、翌年の69年に「特別閉山交付金」制度を制定した。 その結果、1957年(昭和32年)には、【筑豊】にあった176の炭鉱(福岡 通商産業局編 九州炭鉱名簿昭和32年版)が、3年を経ずして72年には、筑豊に あった炭鉱がすべてなくなり、筑豊には、大手有資力炭鉱の鉱害処理窓口とボタ山を 残すのみとなった。 そのため、筑豊には雇用の場が無く失業者が多発し、人口の3分の1が生活保護世 帯という町も出現するという。どうしようもない貧困と、炭鉱の操業中は、地下にあ る石炭の掘採をするため、地下水を地上に水揚げしながら作業をする。それが炭鉱の 閉山によって水揚げする必要もなく停止される。そのために、石炭やボタ石を掘採し た膨大な採掘跡の洞に地下水と土砂が流れ込み、埋まる時間は採掘深度に比例して長 くなり、約2年から3年以上の時間をかけて地盤の沈下現象を起こし、地上では、1 0bにも及ぶ地盤の沈下が各地でみられている。そのような被害を農地や家屋、道路・ 学校・灌漑水路などの公共施設に与え、又炭鉱の閉山による地下水位の上昇に伴い、 赤水などの鉱毒湧水が各地で発生するという、まさに【筑豊】は、石炭鉱害の垂れ流 しの現状を呈していた。 生活環境では、前時代的で朽ちれかけた炭鉱社宅の長屋、炭鉱の簡易水道で生活を 余儀なくしている炭鉱失業者とその家族、そしてその中で子どもの生活がある。しかし、その子ども達の生活のさまが、土門拳の“筑豊の子ども達”と題した写真集で如実に表 現されている。それは、こうした最悪の生活環境のなかでも負けず逞しく明るく遊び 生きている筑豊の子ども達の姿を、筑豊の大人達にかえて写し出しているように見え る。 ハ. 福岡県田川郡川崎町に在る、古河大峰炭鉱社宅解体のため、旧大峰炭鉱社宅から 居住者の追い出しを掛ける古河鉱業に対して、地域住民との協同の斗いと、『すみれ保育園』の建設 古河大峰炭鉱から1969年4月30日付けの葉書が5月1日の朝、炭鉱社宅に 住む全員に送付された。その内容は、大峰炭鉱が閉山に伴う物件処理のためにとい う理由で9月1日より炭鉱住宅の解体を行ない、用地全体の造成工事をするため、 8月31日までに明け渡すこと、さもなければ法的手段をとるという。前従業員に対 しての情け容赦のない仕打ちである。 この情報は、一日にして川崎町の全地域に伝わり各地から大峰炭鉱事務所前に集 まり、古河炭鉱は、働かせるだけ働かせ必要が無くなれば簡単に首を切る。居住権 も無法的に剥奪する。このようなことが資本家なら罷り通ると思ってるのかと、そ の腹立ちが頭から足の先まで電気が走る思いがする、と異口同音に怒りをぶちまけ た。集まった六十数名の人達は、協同して斗う決意を新たにして、呼びかけ、町を あげて政府の閉山政策を糾弾しよう、と、6月半ばに福岡通産局へ押しかけ局長の 考えを糺すことを決めた。そして、行動の日は、6月22日ときまった。 川崎町から大型バス3台が出され、バスには、自治会員、各地域の商店街の人々、 川崎町役場の代表者など180名余が同乗し、大峰を出発。 交渉は、午前10時からもたれ、局からは、高井敏夫通産局長、宮森合理化事業 団九州支部長他が出席し、炭住自治会から入江会長他10名、支援者として日本共 産党福岡県委員会を代表して高曲敏三さん、法曹団から諫山博弁護士他が参加して 交渉に入った。その他の180名の参加者は、通産局(合同庁舎)前広場に座り込 み報告を待機する。 高井敏夫通産局長は、私の仕事は、炭鉱の閉山までであるが、閉山後にこうした 民生の安定を欠く問題が生じることは考えもしなかった。炭鉱の閉山でこの様な後 始末が残されていたことを始めて知り痛恨の次第です。宮森支部長とも話し合い皆 さんの要望に答えたいと述べ、石炭合理化事業団の宮森支部長は、古河鉱業の重役 を呼び、こうした迷惑を皆さんにかけ、局長にもかけたことは許せるものではない。 厳しく責任を追求し、皆さんの期待通りの解決をします、と約束した。 そして、一週間程たち、古河鉱業取締役 木下芳兵衛氏から連絡があり、謝罪と、 葉書による社宅問題を撤回し、社宅はいつまで使ってもらってもよい。しかし、家 賃は取らないので8月31日をもって電気は切る。それまでに、自治会の方で対処 してほしいとの回答があり、本抗旧売店前に待機していた自治会(世帯数700全 員)員にこの勝利の報告がされた。 この時、自治会員やこの報告集会に各地域から参加した人々も一背に立ち上がり、 誰からともなく、泣きながら万歳と拍手の混声がなり響き、大峰地域にこだました。 この日の空はどんよりと梅雨雲がたれさがりいまにも泣きそうな空模様だが、皆 んなの心は晴れ晴れとしていたと思う。 丁度この時、古河大峰炭鉱問題で、福岡県知事の記者会見があり、亀井知事は、 「こうした事件は、現在の炭鉱資本の考えからして今後も生じる可能性がある。未然に防ぐためにも炭鉱住宅の改良を進める」と述べ、とくに大峰炭鉱住宅の改良 は昭和46年度から実施するということが発表され、全国の炭鉱住宅に先がけて改 良されることになった。 大峰地域で、すみれ保育園の建設 前述の古河大峰炭鉱社宅問題が解決し、炭鉱住宅の改良も進んだ1973年頃大峰 地域のお母さんたちから保育園の建設の訴えが起きてきた。それは、大峰炭鉱には、 幼稚園が以前からあってそれが閉山により無くなった。 働くお母さん達は、保育園や託児所の建設を炭鉱の閉山した時から、川崎町長に陳 情してきたが、叶えられなかった。なんとかならないのかと言う訴えであり、その声 が日増しに多くなり、炭住自治会長でもあり、75年4月から町会議員になった入江 を含めて保育所建設陳情団が組織され、村坂町長との交渉が持たれた。町としては、 財政事情のため町立保育所建設はできないが、皆で法人を作り民間による保育所の建 設を考えたらどうか、それなら町として援助することができる。取り敢えず、大峰地 域にある旧古河炭鉱売店を貸し与えるから、そこで仮園舎を建て保育所運営をしては どうかと言う意見が村坂町長から提案された。この町長提案を持ち帰り討議し、町か ら旧売店を借り受け、ボランティアで改造し、大峰地域のお母さん達と近隣の識者に よって『すみれ育成会』が作られ76年4月10日に開園、村坂町長の援助もあって 5月1日からは、財団法人『すみれ育成会』として運営。77年(昭和52年)5月、 定数90名による社会福祉法人『すみれ育成会』が発足。今日に至る。そして、80 年に新園舎の建設、80年4月から新園舎ですみれ保育所運営をすることになつた。 ニ. 大峰地域で、地域福祉社会の建設を目指して 大峰地域での子どもの生活環境は、川崎町の全地域のなかで、生活保護世帯が最っ とも多い地域であり、子どもの非行数も高い。シンナ吸引、暴力などが頻繁にあり、 学校の教師から児童館の建設要望が多く、不登校生徒もかなり在るとの声を聞く。 1995年度における田川市郡の65歳以上の高齢者人口は、31,375人、比率は、19,79%、(全国人口比は、14,5%)70歳以上の高齢者人口は、28,936人、 比率は、18,27%となつていて、全国の65歳以上の総人口比より3,77%も 高くなっている。 田川市郡地域で身体障害手帳が交付されている障害者は、96年度て6,149人 知的障害者は、1974年(昭和49年)より療育手帳制度が実施され手帳交付を 受けている、こうした療育を必要とする知的障害児者は、田川地域で913人いて、 精神障害者を除いた6149人中、何らかの施設で働き又そのなかで療育を受けな がら働いている心身障害数は576人で9,%、10分の1以下である。 こうした現状を踏まえてこれらの問題の解決を図るには発達期の幼児の生活を守 り発達の保障、低小学期のこどもの生活を守る全面的な保障、心身障害者の発達と 社会的自立へ向けた生活の保障に対して、地域に開かれた施設建設と運営の実践を 通じて地域福祉社会の建設をめざし、この集団の力で福祉の落ちこぼれをなくする ため、1986年に『すみれ児童館』(学童保育所併設型児童館)と同時に、身体 障害者通所授産施設『秀峰園』を建設し、現在、『すみれ児童館』において、学童保育所と『コ ドモ110番』・小学校・中学校の不登校生徒を親と学校から預かり就学援助、家 庭塾を県立大の学生ボランティアの協力で3年前から実施、20〜24名の大峰地 域の子どもを指導している。 ホ. 1968年(昭和43年)に出された、第4次石炭答申は、筑豊にあつた統べて の炭鉱を潰し、筑豊地域にあった生産関係と社会的諸関係を根底から崩ずした。そ の現状から、それそれに立ち上がり、それそれの生活防衛のために集団が組織され 斗いがはじめられた。 全日自労に組織された失業者は、雇用の場をつくれ、もとの筑豊に帰せと叫ぶ住 民、筑豊の自治体に筑豊の政治的自治を与えよ、の協同の斗いが、【筑豊の復興】を 旗印に、「よみかせえれ筑豊」を合言葉に1,000名が結集して1976年3月、 復興共闘会議の結成大会が直方にてもたれた。 第1次オイルショクの経済的政治的打撃を受けた田中内閣に向けての筑豊の復興 斗争は、大きく国民の共感を受け大きく発展した。前政府(佐藤内閣)は、この闘い を予測していて、1967年7月、「臨時石炭鉱害復旧法」を改正し、10年間の 延長と産炭地域の振興をはかるため、鉱害復旧長期計画を新しく「復旧法」に捜入 し、産炭地域振興臨時措置法を改正、炭鉱離職者法の改正を行ないこれらの改正に 伴う財源を石油関税の引き上げに求め、石炭関係法の施策的財源を安全に確保する ため、石炭及び石油対策特別会計法を、所謂、炭鉱閉山答申の前年の1967年に 制定した。 その後 佐藤内閣の退陣で誕生した田中角栄内閣は、日本列島改造、 工場再配置促進法を掲げ、そのもとで、72年4月に「石炭及び石油対策特別会計 法」を改正し、1972年12月、中曽根康弘通産大臣は、先に述べた「石炭六法」 の改正を待って、産炭地域振興策の告示を発表し、佐藤内閣によって、1969年 に制定した「同和対策臨時措置法」をこれらの諸法律に関連させ優遇する実施を指 示した。 そのことのため、筑豊に於ける部落解放同盟の利権活動を活発化させ、筑豊地域 の市町村の財政負担は、大きく膨らむことになった。 政府はその一方で筑豊の振興策を対象に縦割り行政でなく、面での行政措置とし ての関係各省庁連絡会議を創設、そして、福岡県を中心に佐賀県、長崎県、熊本県 の地方公共団体に対してこれらの振興の政策的指導を強めた。 こうした、政府の対応に対して『筑豊復興共闘会議』は、筑豊に於ける関係市町 村と共に政府にたいしても、福岡県に対しても、公共事業を制度的就労対策事業を 基本にした雇用対策を強く求めていく運動の強化を図った。政府はそれに答えて緊 急就労対策事業(1959年実施)・産炭地域開発就労事業(69年実施)・特定 不況地域離職者臨時措置法(地域開発就労対策事業(78年実施)などの諸法律を その都度改正し、吸収率や労働条件の改善を図った。しかし、こうした制度的就労 対策事業は、失業者吸収を基本にしているため、機械等の導入が考慮されない事業 であって、能率は上がらず財政を食うのみとの世論の批判を受ける結果を引き起こ している。 2. 新たな筑豊の復興を目指しての協同の闘い イ.田川地域の現況について 筑豊全域の中での雇用問題の立地条件は、田川地区が 最も悪く地域の振興問題で、1968年(昭和43年)度から97年度末までに行 なった公共投資は、田川地域内での福岡県の公共投資、鉱害復旧費、自治体の同和 対策関係投資、及び、制度的就労対策事業投資などを合わせて2兆円を超えている。 (人口は、田川1市8町1村で、戦後における炭鉱の全盛時代の1950年には、 254,893人で、75年には、156,821人に減じている。97年では少 し減人口となっていて大差はなく推移している。)従って、この地域に投下された 公共投資額は、一人当たりの補助金に換算して約1274万円となる。 こうした膨大な金が、使われて、炭鉱住宅は公営住宅として立て替えられ、道路 は、田川地域の隅々まで舗装され下水溝もそれにつれ改善されている。また、田川 地域を縦断して流れる主要河川である英彦山川・中元寺川の護岸や田川全域の支流 の護岸も殆ど改修され、炭鉱の全盛時代には、地下水の揚水や洗炭のかすなどが流 れ込み、まっ黒だつた川も澄“しじみ”が宿っている。 そして、田川地区の経済幹線道路の国道201号ル−ト(田川U博多U行橋)・ 国道322号ル−ト(北九州小倉⇔田川⇔久留米間87km)の拡張などの整備は、ほぼ完 成に近かづいている。 田川での家屋の鉱害復旧もかなり進み町並は奇麗になって いる、こうした現況に呼応してか、最近、大型ス−パが加なり進出してきていて、 商業販売競走が激しく、少し、地価も上がり外観的に田川地域を見ると景気がいい のではと疑いたくなる。 しかし、目をそらして従来の地域の商店街を見れば閑古鳥が鳴く。そして、田川 では地場産業が育っていない。また田川に於ける広大な農地にはペンペン草が茂ってい る。 先述で、田川市郡での65歳以上の高齢者数は95年度で31,373人いて、 全国平均で5.69%も高く、生活保護者数は全国平均の12倍と非常に高い。 こうした現況は、中高年労働者の雇用の場が無く、更に、『炭鉱離職者対策法』 も時限の2001年度で無くなり、また、『特別不況地域開発就労対策事業』の存続も危ぶまれている。従って、時限を前にして、新たに失業する中高年労働者の雇 用問題と共に田川地区の後継者問題も含めて炭鉱に代わる産業の開発を自治体と共 に考えなければ、復興どころか明日の田川も筑豊もない。 ロ.田川に於ける新たな復興の道筋を通して筑豊の復興を考える。 田川は、2兆円もの金を32年間の時間をかけて色々な前述のことをしてきたが 税収に繋がらず、とくに田川地区の自治体の財政力指数は、筑豊の中で最も悪く、 平均にして0.22となっていて全国平均(0.68)の3分の1以下である。 『石炭六法』の時限を前に、その延長に、筑豊は、総力を結集して斗った。その 結果、98年の石炭答申は、予想に反して激減緩和措置として5年間の政策的延長 を発表した。筑豊は、今このたたかいの成果を活かして“前車の轍を踏まず”新た な復興の道を選択しなければならない。その道は、炭鉱に代わる産業、即ち、弥生 前期から豊かな流域に支えられ育まれてきた農耕のための広大な農地が残されてい る。この農地を活用しての新たな農産業の開発による雇用の場と福祉の充実を図る 地域社会を協同の力で建設する道である。 飯塚農林事務所の統計(1995年)によれば、筑豊地区の農業就業人口の推移 は、激減している。1960年の農業就業人口74,600人から1995年には14,000人、2005年の見通 しは、10,300人になると言うものである。このまま推移すれば、筑豊における農 業就業者は、後継者が育たない現況からして、絶対的に高齢化が進み殆どの農地は 放棄されるであろう。その原因は、政府の農業政策によるものであることは言うま でもない。 そして、現在の農民の多くは、「食管法」がなくなっているのに減反を強化し、 転作しても不況のため、作物の販売に自信がなく休耕地を増大させている。 私たちは、この休耕地を集団的に借り受け、自治体・農協・借受け農地の地権者 でもある農業就業者、学識経験者、農業労働者協同組合、福岡県高齢者福祉生活協 同組合代表等で『農産業開発センタ−』等の第3セクタ−方式又は、生産組合方式 による計画生産と、それを保障するための『販売ネット』による計画的販売を広域 的に組織化することを図り、農産物の集荷・加工。配送・情報の一貫性と集約等に よる農産業の開発を発展させ、炭鉱に代わる雇用の拡大を図る。そして、そのなか で意識的に農業後継者づくりと地域の指導的青年後継者づくりを地域社会で成功さ せ、地域福祉の確立を自治体と共に建設し、障害者、老人、子どもなどの弱者が明 るく安心して住むことができ、心身障害者が社会的自立をめざして働き、ともに、 将来を望める故郷、福祉の田川、筑豊の建設を考え、その拠点としての役割を果た すため、社会福祉法人『すみれ育成会』は、川崎町安宅に生椎茸を生産する、知的 障害者福祉工場を日本労働者協同組合や福岡県高齢者福祉生協、そして地域の人々 と協同して建設を計画しているものである。 |