『協同の發見』2000.9 No.100 総目次
巻頭言

「レイドロー報告からケベック大会へ」
The times between Laydraw’s report and Quebec congress

岡安喜三郎(埼玉県/日本労協連)

  ちょっと回顧的になって恐縮であるが、たまたま本号が20年前の「レイドロー特集」なのでそれに関連して協同組合での働き方をどう模索してきたか思い返してみたい。しばし御容赦願いたい。

 私が東京大学生協の専務理事になったのは1979年で、レイドロー博士がモスクワで「2000年における協同組合」を報告した1年前である。当時はICAという組織があることを知ってはいたが、いわゆる「レイドロー報告」については知る由もなかった。そもそも関心がなかったと言ったほうが正しいかもしれない。

 もちろん、日本の協同組合研究活動においては、レイドロー博士の報告草案が日本語に訳出されていたらしい。それが労協や一部の協同組合を除き、総体として「知識としての蓄積」になったことは残念であるが。

 1970年代は地域生協、大学生協も、いわゆるチェーンストア理論導入の「全盛期」で、一方ではチェッカーの腱鞘炎発生が問題化し、他方では「売り上げ至上主義」が高じて、オーディオ製品の販売会議で軍艦マーチが流されるなど、結構労使問題には事欠かない状況であった。

 1980年を前後して「低成長」も定着し、大学生協も「組合員の声活動」などが広まりはじめ、「大学との協力関係をつくり」をめざすなど、大学をコミュニティとして意識した路線の転換がはっきりしてきた。換言すれば、左翼的運動から市民的運動への転換である。


 そんな中で「レイドロー報告」を知った。それは私にとってまさに心地よい衝撃であった。しかし、肝心の博士はモスクワでの報告後カナダに戻り、その1月後に他界した。私は「遺稿」を見たことになる。

 報告の中で私が印象深かったのは、何よりも「思想の危機」という指摘である。「歴史を振り返ってみると、成長と変化の三段階を協同組合は通ってきた。」その第一に対応する信頼性の危機。

 そして第二は経営の危機。現在は第3の危機、思想的な危機。もし、協同組合が他の企業と同じような事業の技術や手法を使うなら、組合員の支持と忠誠を得るためには、それだけで十分だろうか? さらに、もし、世界が奇妙な、時には当惑させられるような道筋で変化しつつあるなら、協同組合も同じ道筋で変化していくべきなのか? その方向とは決別して、別の種類の経済的・社会的秩序を創ろうとしてはいけないのか? 今世紀末へ向けて協同組合運動の展望をはっきりさせる。」と高らかに謳いあげてあった。今でも生きた指摘になっているところがにくい。

 続いて「協同組合の本質」の項では、私も十年以上にわたって「大学生協連新任専務理事セミナー」で引用してきた文章がある。「今日、協同組合人の中に、理論や思想を避け、その代わりに『事業を優先する』という強い傾向が存在する。しかし、それは間違った態度である。どのような組織や制度も、まず第一に、人々が信じ、支持したいと思う考えや概念にもとづいて設立されるからである。」

 また、生協の活動に身を投じて浅かった私に、協同組合とは何かという本質問題を権威として提示してくれたのもレイドロー報告ということになる。博士は、協同組合の定義でもっとも満足のいくものとしてシャルル・ジードの定義を引用した。この定義が15年後、マンチェスターにおいて宣言された協同組合の定義の基になったことは読者の知るところである。

 レイドロー報告の意味を把握するところが人によって、また研究テーマや実践の場の違いによって異なるのは仕方のないことであり、当然とも思われるが、いずれにしても21世紀の協同組合に向けて多くの協同組合人を鼓舞したことは間違いない。私もその一人に入れてもらえると思う。

 とくに、レイドロー報告は、「NPOに注目する社会が、協同組合には冷たいのはどうしてなのか」(杉本貴史、「生協は21世紀に生き残れるか」第IV章(大月書店2000年8月刊))の指摘に共感しつつ、協同組合や労働組合に関心を持っている若者・青年がいま読んで、既存の幹部と大いに議論すべき重要な文献でもある。

 1995年の「協同組合のアイデンティティに関する声明」までに、レイドロー報告後、それと双璧を成すのがベーク氏の「変化する時代における協同組合の価値」(1992年東京大会への報告)であることは誰もが認めるところであろう。レイドロー博士は日本の総合農協に注目し、ベーク氏は比較的生協に注目している。


 その因果関係は分からないが、日本の生協運動はコープさっぽろもふくめ、「価値」のシンポジウムや研究を比較的旺盛に推進した。私は生協で仕事をしていたので、ここで一つだけ指摘しておくと、私の印象では、組合員は事業の主体であるというより、事業に参加させるもの、生協職員は動員の対象であり、あくまで幹部のマネジメントの対象であり、事業組織に民主主義はあり得ないという枠を維持した「価値」論議であった。皮相的にいえば「価値」までも経営の手段の問題にしてしまった。すべてが既存の枠組みの中に収斂していったのである。

 既存の枠組みを維持したままでは協同組合の発展はあり得ない。このことを実践的に豊かな報告で証明したのが、昨年のICAケベック大会である。グローバル化と集中から誘導される排除(リストラ)に、包み込みを精神とした協同組合が挑戦しようという趣旨の大会であった。

 日本の協同組合の20年は、未だ既存の枠を突破し切れていない。このレイドロー報告、マルコス会長の価値提起、ベーク氏の報告を研究や紹介に終わらせ、実践的に体質にし切れないまま20世紀を終わろうとしている。
 もはやレイドローの報告書(英文)もICA本部でも在庫僅少らしい。日本の協同組合運動総体もその指摘の必要性を早急に実践で克服して欲しいところであるが、まだまだ有効なようである。

9月号目次協同総合研究所(http://JICR.ORG)